紳士は恋で作られる
(6)
「トリスタン、あんたを信じた私がバカだったわ」
どうせ通じやしないでしょうけど、文句も言いたくなるってもんよ。
あれからバルコニーに出た私は、庭に下りる階段の上に立ったのね。人間だったら大したことのない段差でも、私にしたら「飛び降りる」って感覚なわけよ。さすがに躊躇するってもんでしょ。それでもダイヴしながら降りようと決意したら、下から軽やかに階段を駆け上って来る黒い影が。
私の天敵、アイリッシュ・セターのトリスタンだったの。
私、きっと疲れていたんだと思うわ。アンディったら、いつもはケージに蓋なんてしないのに、今夜はバスタオルを掛けて行くんですもの。おかげで抜け出すのに一苦労、バルコニーに出た時にはかなり疲労していたのよね。そこからまた庭まで階段を飛び降りて行かなきゃならないかと思うと目眩がしたわ。だから下から上がって来るトリスタンが、素敵な白馬に見えたのは仕方のないことなのよ。実際のトリスタンは赤毛なんだけどね。
彼の目を見つめて、滅多に出さない声でお願いしたわ。
「私をアンディのところへ連れて行ってちょうだい」
常日頃、イーニアスの完璧なクィーンズ・イングリッシュを聴いてるから、発音には自信があるの。トリスタンはつぶらな瞳で頷いた――ように見えたんだけど、甘かったわ。
所詮はカメと犬。種族の違いで通じなかったのか、トリスタンがバカ犬だからか、とにかく風のような速さで彼が私を運んだのは中庭のガゼボ(東屋)近く。広間のテラスの裏っ側じゃないの。
その上、いつものように私をボール代わりにしてさんざん遊んだあげく、人間の姿を見かけたらさっさと尻尾振って行っちゃったのよ。自慢のボディをヨダレまみれにして放置だなんて、もう絶対許さないんだからね。
こんなことになるんだったら、おとなしくアンディの帰りを待ってるんだったわ。部屋から遠く離れちゃって、自力で戻ったらどんだけかかることか。下手したら夜が明けちゃうじゃない。
あら? 芝生を踏みしめる音。人の気配がするわ。チャンス。この家の人なら、私がアンディのペットだって知ってるから、部屋まで送り届けてくれるかも。どうやらガゼボ(東屋)に来るみたいね。誰かしら、確かめなくっちゃ。今夜、野宿かどうかがかかっているんですからね。
誰かと思ったら、イーニアス。ラッキーだわ。彼なら、一目で私だってわかってくれるもの。
でも、今時分、こんなところに何しに来たのかしら。まだ「プチお披露目の会」の最中でしょうに。イーニアスはこの家の次期執事で、将来、アンディとコンビを組むのよね。今夜がアンディのお披露目なら、当然、イーニアスだってお披露目されるようなものでしょ。ちゃんと執事用の制服着ているし、広間には入らなくたって近くで控えているもんじゃないの? 抜け出して来ていいの?
何だか様子が変。疲れているのかしら、いつもの背筋の伸びた感じがしないわ。椅子に座ってすぐにテーブルに片肘つくなんて、イーニアスらしくない。ここのガーデンライトってスタンド・タイプでライトも一個しか付いてないの。だからそんなに明るくなくって、イマイチ彼の表情が見えにくいから、はっきりしないけど。
やっぱりいつもと違うわ。ため息みたいに息を吐くし、ぼんやりしてるし。緊張して疲れたのかしらね。だって、今夜のお客って親族の中でもおじいちゃんに近い人達ばかりで、貴族としてルーキーなアンディをフォローしなきゃなんないでしょうから、疲れても仕方ないわ。
そんなこと考えている場合じゃないわよ、私。イーニアスに姿を見せて部屋まで送ってもらわなけりゃ、野宿、もしくは夜通し歩くことになるのよ。さ、とっとと手足を踏み出して――だけど、声をかけにくい雰囲気だわね。本当にどうしちゃったのかしら。そう言えば、パーティーの始まる前から様子がおかしかったわ。惚れ惚れするほど見違えたアンディを見ても、嬉しそうと言うより複雑な顔してたもの。
「イーニアス」
今度はアンディじゃないの。あんた、パーティーの主役でしょう? 抜け出してきて大丈夫なの?
イーニアスもびっくりして立ち上がっちゃったわ。
「どうなさったのです」
「疲れた」
「疲れた? それで抜け出してきたのですか?」
「おまえだって抜け出してるじゃねぇか」
「立場が違います」
「立場…ね」
アンディが鼻で笑ったみたい。ここからじゃどうしても、表情が見えないわね。私から見てあんなに大きな二人の顔が見えないんですもの、二人からすれば私なんて見えないに決まっているわ。この前みたいに良い雰囲気にならないとは限らないし、邪魔しちゃ悪いわよね。もっと前に出て行くのは、少し様子を見てからにしようっと。
「早くお戻りください」
「俺が抜けてもわかりゃしねぇよ。すっかり親戚の集まりになってっからな」
「それでも、今夜の主役はあなたなのですよ。そのために皆様、お集まりになってるのですから」
そうよ、アンディ。今日は晴れ舞台じゃないの。規模は小っちゃいけど、三年の成果の見せ所なのよ。こんなところに腰落ち着けないで、とっとと戻りなさいよ。あ、イーニアスはまだダメよ。私を見つけてくれなけりゃ。
「娘のお披露目会でもあるんじゃねぇの?」
そう言えば、若い女の子も来てたわね。バルコニーからじゃ、顔まではわかんなかったけど、ブロンドにブルネットに。アンディから見れば従姉妹連中になるのかしら。ああ、華やかなワンピとか見たかったのに。
「アンドリュー様のお従姉妹にあたる方々ばかりです」
「だろうけど、紹介する親も紹介される娘も、売り込みが見え見えなんだよな。」
「あなたはこれからこう言う機会の折に、様々なご婦人方とお会いになられます。伯爵家の後継であるかぎりは、避けられません」
なるほど。跡継ぎを作ることも、由緒ある家柄を継ぐ人間の重要な務め。問題は、アンディにその務めが果たせるかってことなのよ。
何度も言うようだけど、アンディは今じゃ立派なゲイなんだから。バイだってアンディのママは思い込んでいるし、女の子との既成の事実はあることはあるわ。でも「ある」ってことだけなのよね。
「種馬ってことか。父親の血筋はご立派かも知れねぇけど、母親の方は移民で庶民だぜ。それに俺に子供を求められても期待には副えねぇ。女の身体に興味ないからな」
「一般庶民の血は、ソールズベリ家に健康な血をもたらします。旦那様があなたを強く押されたのは、その点にもあるのです。女性をまったく受け付けないと言うわけではないでしょう? あなたの初体験は確か、リタ・ボイド嬢だと伺っておりますが?」
「そんなことまで、よく調べたな? だったらこれもわかってるはずだろ? 彼女相手に『失敗』して大恥かいたことも」
そうなのよね。いっつも初体験は女の子だったって話の際にリタが引き合いに出されるんだけど、結局、彼女とはダメだったのよね。最初は一挙に盛り上がったらしいんだけど、彼女の胸を見た途端、アンディの『息子』ったら元気がなくなっちゃったんですって。