紳士は恋で作られる
今、彼を呼んだのは私じゃないわよ。
「旦那様」
え、嘘、アンディじゃないの、どうして? 帰ってくる予定なんて聞いてないわよ? と言うか、こんな中途半端な時期に戻るなんて、今までなかったわ。
「お戻りになるのは、八月の予定では?」
「色んなことに目処がついたからな」
「目処?」
アンディは立ち上がろうとするイーニアスを止めて、彼の隣に腰を下ろしたわ。こんなプライベートのツーショット、久しぶりね。あの『ガゼボの夜』以来じゃないかしら。
アンディ、すっかり伯爵様然としちゃって、上等なスリーピースもシャツもタイも、自然に着こなせるようになったわ。ルーズリーフなピアス・ホールも消えているし。昔、ソフトモヒカンやらブレイズやらしていた頃の面影は、どこにも残ってない。「アンディ」って呼ぶより、「アンドリュー」の方が似合ってる。生き生きとしたエメラルド色の瞳だけね、やんちゃだった昔の彼を思い出させるものは。
「次の伯爵を決めた」
「え?」
「ボワモルティエ家のリオネルだ。知っているだろう?」
今じゃ完璧になった発音でアンディが言ったことったら、次期伯爵ですって? ボワモルティエって言ったら、亡くなったおじいちゃんの弟さんちよね。確か、アンディが後継者になるのを反対したうちの一人だって聞いたことがあるわ。
「何を仰っているのです。次期伯爵だなど、あなたはまだ三十六才ではありませんか」
「もちろんリオネルは二十才だから、正式にはまだまだ先のことだ。でも今からみっちり仕込めば、きっと立派な主になるさ」
「私が申し上げたいのは、あなたご自身のお血筋を残す可能性です」
「俺には無理だ。俺はイーニアスを愛しているから」
アンディ! 何、今の?! 愛の告白?!
あんまり唐突に、それもさらっと言うから、見てよ、イーニアスは不思議なものを見るような目をしているじゃないの。
「な…にを、仰っているのです?」
「おまえを愛している。だから、子供は残せない」
アンディの手が、イーニアスの手を握ったわ。
イーニアス、まだわからないの? アンディはあなたを「愛してる」って言っているのよ。そんな素振り、この十五年見せなかったくせして、アンディったら、こんなサプライズを用意していたなんて。
「冗談はおやめください」
イーニアスが信じられずにそう言うのも無理ないわ。
「冗談なんかじゃないさ。十五年前から決めていたことだ」
「十五年前?」
「そう、おまえに拒否された時からな」
あの『ガゼボの夜』のことよね。あんな子供だった頃に、次の伯爵のことを考えていたって言うの?
いいえ、それよりも、十五年間ずっとイーニアスを愛し続けているってこと? 今まで放ったらかし状態だったくせに?
「あの時の俺では、何をするにも自分の思い通りにならなかったろうさ。先代も元気だったし。独身で通すだとか、他家から養子をもらうなどと言ってみろ、端から潰されるに決まっていた。自分の思うように動かすには、それなりに力が必要だった。馬鹿は馬鹿なりに考える」
「あなたは馬鹿などではありません」
「おまえは、俺なら立派に跡を継ぐと言ってくれた。それに賭けることにしたんだ」
恐るべし、恐るべしだわ、アンディ。そんなことを考えていただなんて、思いもしなかった。しつこいと言おうか、粘り強いと言おうか。
でも待って。アンディはずっとその気でいたとしてもよ、イーニアスの気持ちを考えたことがあったのかしら? だってイーニアスは恋を諦めてしまっていたもの。結果的には恋人がいなかったけど、作ろうと思えばすぐに作れたはずよ。可能性があれば、誰も彼を放っておかないくらい魅力的だもの。
待っていろとも言わずにいて、イーニアスの心が誰かに向くって考えなかったのかしら。
「これを機に事業の組織も変えることにした。実務は優秀な人間に任せて、伯爵家は名誉職に退き、本国を生活拠点にする」
「そんなっ…」
「一人の人間が全てを賄うのなんて、無理なのさ。世間知らずのお坊ちゃんでは、よほどの商才がないかぎり会社経営はキツい」
「あなたはその若さで引退するつもりなのですか?」
「すぐじゃない。リオネルが一人前になるまで、仕事の量は減らすにしても今まで通り働くつもりだ。おまえには次の執事を教育してもらわなければならないしな。ただそれも十年かそれくらいの時間だろう。彼らに全てを渡したら、その時はイーニアス、俺と一緒に来て欲しい」
ドキドキの展開よ。イーニアスったら、目の前で風船が割れたような顔をしているわ。そりゃそうよね。まるでプロポーズだもの。イーニアスは意味、わかっているのかしら。呆けてる場合じゃないのよ。
「ニューヨークに代理店を立ち上げるつもりだ。その準備を進めている。住むところも用意した」
ニューヨーク。私達が生まれ育った街ね。そんなことまで考えているなんて、アンディ、本気なんだわ。若い頃に一度終った恋だと思っていたのに、アンディの中では終ってなかったのね。ガキんちょだったアンディが、外見だけじゃなく内面もイイ男になって、私、惚れ直しちゃう。
「そんなこと、出来るはずはありません」
なのに、イーニアスったら相変わらずなんだから。
「目処をつけたって言っただろう?」
「あなたは先代に劣らない器量をお持ちです。業績も前年比増だと聞いておりますし、伯爵としても大公殿下からのご信頼も厚くてらっしゃるのに、全てを投げ出すと仰るのですか?」
「業績は俺一人で上げたわけじゃない。優秀なスタッフ達が知恵を出し合ったものに、オッケーを出しただけだ。『ご信頼』にしたって、代々築き上げてきたものを守っただけさ。俺一人の手でしたものは、何もない。俺がいなくて回って行く。そうなるために、俺は十五年間、文句も言わずに働いて来たのだからな。それに伯爵と言う地位にも未練はないんだ。もともとニューヨークのダウンタウン生まれだから、肩が凝って堪らない。それともイーニアス、おまえはここの執事と言う職に執着するのか?」
アンディはまっすぐイーニアスを見ているわ。こんなカッコいい彼、見たことない。
そりゃこの十五年間、アンディがすごく頑張っていたことを知っているし、どんどん出来る男になって行くのは見てきたけど、私が知る以上にたくさん学んで、たくさん考えて来たのね。
「この職を手放したくありません」
「イーニアス」
うそ〜。
「ソールズベリ伯爵家の執事は特別です。留守を預かる責任は重いですが、それ以上に遣り甲斐がある。上流階級の方々とお会いする機会も多く、あちらこちらで便宜も図って頂けます。惜しくないはずがございません」
イーニアスが普段言いそうにもないことを、顔色を変えずに淡々と喋ってる。他の人が見たら、いやらしい人間にみえるでしょうね。「地位に執着する意地汚いヤツだ」って。
でもイーニアスが心にもないことを言っているのだって、私にはわかるわ。イーニアスがアンディのことを惜しんでいるのよね。アンディが自分のために、地位も名誉も人に譲ろうとしていることを、申し訳ないと思っているのよ。イーニアスがここに残ることに固執すれば、アンディが思い直すのじゃないかって考えているんだわ。