紫の夜語り〜万葉集秘話〜
鎧戸《よろいど》を閉ざした暗い室内で、ほとんど食事も口にせず、寝台
の上に正座して、
「造媛の仕業なのですね。造媛がお父様を密告したのですね」
侍女が声をかけた時だけ、唐突にそう呟く姿は、哀れでもあり、薄気味
悪くもありました。
石川麻呂の誅殺から数日もたたないうちに、皇子は造媛の元へ来て、
「飛鳥は血で汚れてしまった。そのような場所に健王を置いてはおけぬ。
すぐに難波に参れ」
と、有無を言わさず、難波行きを承知させてしまいました。
出立の朝、造媛は健王を抱いて輿《こし》に乗ると、忌まわしい記憶を
締め出すように、簾《すだれ》を下ろし、懐かしい景色を振り返って見よう
とはしませんでした。
皇子は「いつでも顔が見られるように」と、ご自分の屋敷の隣に贅を尽くした
新しい屋敷を用意し、難波に着いたその晩には、全ての雑事を投げ出して、造
媛を両腕で包み込みました。
媛は恐ろしいほどの幸せの中で、皇子の手が優しく髪を撫でるのを感じながら
その胸に顔を埋め、啜り泣きました。
嬉しさと、罪の意識と、悲しさの入り交じった涙でした。
「泣いているのか。この涙は誰のために流したものだ。石川麻呂のためか」
皇子が手のひらに落ちた水滴を見せると、造媛は無言で目を伏せました。
「あの者が身を滅ぼしたのは己の罪だ。そなたには何の落ち度もない。自分を
責めてはならぬ」
確かに皇子の仰る通り、石川麻呂は伯父や従兄弟の血で手を染めた、蘇我氏
の中の裏切り者でございます。今度は自分が身内に裏切られ命を落としたとしても
自業自得、誰を怨むわけにもいきませぬ。
けれど、生き残った遠智媛や二人の姫君には何の科《とが》もありません。
回りの者に、遠智媛の様子を尋ねると、
「姫君方はお元気だと聞いておりますが」
と誰もが言葉を濁し、中には口元を手でおおいながら、
「部屋に籠もったきり、外にはお出にならないので、すでに亡くなっていると
噂する者もおります。お付きの侍女も寄せ付けず、滅多に人も訪ねて来ないので、
確かめる者がいないのです」
と、気味悪そうに言う者もおりました。
「気鬱に伏せっておいでなら、なおさら慰めて差し上げなければ…
…私のものだけれど、遠智媛様のところへ届けておくれ」
造媛はまだ袖を通していない紫色の上衣と赤い裙《も》に、金の歩揺《かんざし》
や玉環《たまかざり》を添えて、送り届けさせました。
「遠智媛様…」
侍女が、恐る恐る扉を開くと、遠智媛は昨日と同じように寝台の上に座った
まま、ふり向こうともしませんでした。
「造媛様から贈り物でございます。お召し物です。『これに着替えて、
たまには外へおいでになりますように』との伝言が添えられておりました。
手にとってご覧になりますよう、こちらに置いておきます」
侍女は、なるべく音がしないように寝台の隅に、衣装一式をくるんだ包み
を置きました。
一人になると、遠智媛は贈り物から微かに漂う香りに惹かれ、傀儡子《くぐつ》
のようにぎこちなく、包みを開きました。
中から服に炊き込めた香の匂いがふわりと舞い上がり、遠智媛は一瞬懐かしさ
で、気が遠くなりかけました。
思わず小袖や裙《も》を抱きしめて顔を埋め、
「懐かしい!あの晩に着ていたものと同じ香りがする…」
嫁ぐ日、遠智媛は着ている衣装すべてに同じ香を炊き込めていて、金の
歩揺も玉環も、あの時身につけていたものと酷似しておりました。
なつかしい記憶に刺激されて、封印していた激しい感情が蘇りました。
あふれ出した涙の勢いに耐えきれずに、遠智媛は衣装の上に倒れ伏し、
しばらくの間、溺れる人のように紫色の上衣を掴んでおりましたが、ふと何か
を思い出したのか、宙を見つめました。
「造媛…」
乱れた髪の間から、泣きはらした瞳を輝かせて、何度も造媛の名を呟いた
のでした。
この年、健王《たけるのみこ》は、数え年で三つになりました。
浜辺で拾った貝殻が、お気に入りのおもちゃの一つでございました、
「ひとつ、ふたつ、みっつ」
健王は、貝を三つ、唄いながら地面に並べると、人の爪先のように薄
く淡い桜貝をつまみ上げ、母の造媛に向かって、うれしそうに
「きれいな、かいが、みっつ」
と片言で笑いかけました。
「そう、貝は三つですよ、あたり。あなたは賢いお子ですね」
造媛はゆったりと満足そうに微笑み返しました。
遅い春の夕暮れ時、造媛はいつもよりも長く、庭で過ごしておりました。
「そろそろ風が冷たくなってまいりました」
乳母にうながされて顔を上げると、空は微かに色あせ、西の方角から
黄昏が近づいて来ていました。
風向きが海から山へ変わったのか、風に、樹木の匂いがしました。
造媛は、難波京へ来る途中、山越えをした時、同じ匂いに遭遇したこと
を思い出しました。
長い時間をかけて堆積した樹液や落ち葉に根を下ろした、大樹のみが
放つ、清々しい神聖な空気でした。
古来から飛鳥と難波京の間には、丹比道《たじひみち》という街道が通って
おります。決して険しい道ではありませんが、ただ一カ所、二上山の南側を
通る竹内峠だけは、それなりの山道でありました。
春先、山の樹木は怖いほど勢いよく枝を伸ばし、峠道では、空が見え
ないほどでした。
造媛は休憩の時、乗り物から降りて、そばにあった樹齢数百年は越え
ようとするケヤキを、無言でこちらを見おろしている巨人のように、畏
怖の念で見上げました。
その木の前に立っていると、幼い健王を抱いて立っている自分が、いか
にも小さく、弱々しいものに思えてなりませんでした。
大木はまた、中大兄皇子の姿とも重なりました。
いつしか皇子の力は、造媛が追いつくことのできないはるか高みにまで
達していたのです。
難波京でまた、権力という僅かな太陽光を求めて、多くの大樹が天空
に向かって枝葉を競って伸ばしているかのような世界でした。
(そんな中で、私も健王も無事でいられるのだろうか)
造媛は不安を打ち消すように、
「さ、中へ入りましょう。お風邪を引いてしまいます」
まだ貝遊びに熱中している健王に声をかけ、抱き上げようとすると、向
こうの木立の後ろで何かが動いたような気がしました。人影は、時折植え
込みに服の裾をひっかけてガサガサと音をたてながら、無我夢中でこちらに
近づいてきました。
造媛は、木々の間に見え隠れしている、赤や紫色の服に見覚えがあるのに
気がついて、
「遠智媛?遠智様なの?」
と声をかけました。
(幻だろうか)
幻ではありませんでした。
遠智媛が、先日贈った紫色の上衣に赤い裙 《も》をつけ、高く結い上げ
た髪には金の歩揺《かんざし》をさして、誇らしげに踏み石の上に立って
いたのでした。
それはかつて、石川麻呂の権力が絶頂を極めていた頃、女主人として
山田寺を訪れたのと同じ、誇り高い姿でした。
「やっと外へ出られるようになったのですね…」
そう言いながら一歩前へ出た瞬間、遠智媛もまたすばやく駆け寄りました。
その後のことは、目撃していた乳母も、あまりの衝撃に,思い出すだけで
気が遠くなったそうでございます。
作品名:紫の夜語り〜万葉集秘話〜 作家名:高野聖