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紫の夜語り〜万葉集秘話〜

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 まことに人を殺そうと決意した者の力はすさまじく、遠智媛の手に握ら
れていた小刀は、造媛の胸を突き通しました。
 細い腕に、どれだけの怨みが籠もっていたのか、刃の先端が、背中から飛
び出して見えたと申します。

 引き抜いた小刀は、血の筋を引きながら、横にいた健王に向けられました
が、刃はわずかにそれて、幼児ののど首の下を傷つけただけでした。
 乳母は、自らの体を盾にして健王を守り抜きました。
 地面に接した造媛の半身が、みるみる赤く染まり、やがて自らの血だまり
の中に浸かっておりました。
 健王を見つめながら開いた唇は、終に言葉にはなりませんでした。
 健王は乳母の胸にめりこむほど強く抱きしめられながら、傍らで母がゆっくり
死んでいく一部始終を目撃していたのです。

 遠智媛は造媛の傍らで自害したとも言われていますが、定かなことはわか
りませぬ。詳細な記録が残っていないのです。
 皇子の造媛に対する、あまりにもひたむきな愛情を思うと、その後の遠智
媛の身の上は想像がつきます。
 世間がまとこしやかに語るように、その場で皇子自身が手を下して成敗した
としても、何ら不思議はありませぬ。
 皇子にとって、最愛の人を失った自分の哀しみに捕らわれるあまり、
遠智媛の哀しみも怨みも寂しさも、眼中には無かったことでしょう。
 愛とは、まことに人の視野を狭くする,残酷なものでございます
 
 健王は目の前で母を殺された衝撃のせいか、あるいは喉首の傷のせいなのか、
その後幼くして亡くなるまで、二度と言葉を発することはありませんでした。
 わずか八歳の短い一生でした。

 いつの頃からか世間には、愛する妻を失った皇子の哀しみを歌った曲が流
れるようになりました。
 
  山川に 鴛鴦《おし》ふたついて 偶《たぐい》よく たぐえる妹《いも》
を誰か率《い》にけむ
  …山や川辺に仲良く並んでいた鴛鴦のように、あの愛する人を、
誰が連れて行ってしまったのだ…

  本毎《もとごと》に 花は咲けども 何とかも 愛《うつくし》き妹が
また咲きいできぬ
 …春が来ると、いたるところで花が咲くが、それが何だというのだ。
愛する人は二度と花開くことはないのに…

 健王の早すぎる死が、その後どんな結果をもたらしたか、ご存じの通りです。
 どうしてもわが子に後を継がせたかった皇子は、卑しい侍女に産ませた次
男を皇太子に指名して、戦が起き、国は乱れ…難波京も衰退いたしました。
 同時に、蘇我氏も、ますます没落していきました…
 戦火は、それまで栄えていたものを全て灰に変えました…

 これにて私の語りは終わりでございます。
 武智麻呂様、私の長い物語にお付き合いいただいて、ありがたく存じます。

 そんな寂しい目はなさらないで。
 人生がいつか終わるように、物語もまた終わりを迎えてこそ完成するのです。
 終わらない愛も、終わりのない物語も、興味ありませんわ。

 …私たちの物語はまだはじまったばかりですって?…
 武智麻呂様と私が、これからやってくる藤原氏の栄華の物語に、愛の一編を
書き加えるかもしれないと…
 それもまた、ありかもしれませんね…



               (完)