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紫の夜語り〜万葉集秘話〜

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取るに足らない雑音として背後に追いやられました。

 もちろん石川麻呂の方でも皇子の異変に気づかぬはずがございません。
 急に訪れも手紙も途絶えたのです。
 今までは数多くの愛人がいらっしゃっても遠智媛を、正妻として大切になさって
いたのに、そうした配慮をお止めになってしまいました。
 それは忘れていたというより、皇子のはっきりした意志が込められていた
ような気がしてなりませぬ。
 遠智媛の方は、どんな女であっても、身分の点で自分の地位を危うくする
ような相手がいるはずもないと、たかをくくっておりました。
 ですから、真相がわかった時石川麻呂の家中がどれだけ驚き、衝撃を受けた
かは言うまでもありません。
 
 宮中からもどった石川麻呂は、荒々しい足音を立てながら、まっすぐ遠智媛
の屋敷へと向かいました。
 「こんなことになると知っていれば、倉山田家のために、二人を亡き者に
しておいたのに!」
 娘の顔を見るなり,熱に浮かされたように血なまぐさいことを口走りました。
 「二人」とは、造媛(みやつこひめ)と蘇我日向殿のことでございます。
 石川麻呂は我が身を案じるあまり、弟と兄の娘を殺したい、と申したのです。
「皆が噂しておった。中大兄皇子は日向をお呼びになって話を聞いて『よくぞ
造媛を守ってくれた』と、労をねぎらった上に『そなたは石川麻呂の弟とは言い
ながら、ずいぶん若い。私とほとんど年が変わらないように見える。誠実そうな
目をしている』と、親しげに声をおかけになったというではないか。日向は父
が晩年下女に手をつけて生まれた子だ。あのような卑しい血を引く者が倉山田
の一員などと、片腹が痛いわ」
 遠智媛は父の逆上ぶりに、陰鬱な笑みを浮かべながら、
「でもお父様は日向殿を利用したのでしょう」
 石川麻呂はさらに興奮して、
「その通りだ。わしはあやつを利用した!造媛を任せれば、手をつけて汚して
くれるだろうと期待しておった。しかし現実は違っていた。あやつは亡き兄上
《造媛の父》に忠義面して、造媛を匿っていたのだ…ああ…」
と、拳を苦しそうに額に押し当てながら、
「皇子の、私を見る目は嘲笑っていた。氷のようであった。冷ややかに笑いながら
『右大臣よ、娘が見つかって、さぞうれしかろう』と、そう仰ったのだ。
皇子は私の企みを全て知っておられる。そなたも覚悟しておくがいい。
夫とはいえ、もはや心を許してはならぬ。二人の姫君を守るのだ」
 遠智媛は心の隅で、姫ではなく男児が授からなかったことを口惜しく思いました。
 跡継ぎとなる男児であれば、皇子が倉山田の家を敵に回すことなどできるはずが
なかったのです。

 数日後、皇子は数ヶ月ぶりに遠智媛のもとを訪れました。
 二人の幼い姫君が、父君に甘えようと笑いかけたり、舌足らずな声で話しかけ
たりなさいましたが、皇子はお子様たちをあやしながらも、その表情はどこかに
心を置き忘れてきたかのように暗く、虚ろでした。
 遠智媛ともろくに視線を合わせようとはなさいません。
 皇子は姫君たちを乳母の手に返し、杯に注がれた酒を一気に飲み干して、
はじめて妻と目を合わせ、単刀直入に切り出しました。
「そなたの姉、造媛が見つかった。その話は聞いておろう」
「…はい」
「婚礼の夜に逃げたのではなかった。日向《ひむか》が、造媛の身に危害が及
ばぬよう、廃寺に匿っていたのだ。私が無事を確かめたので、先日、改めて我が
屋敷へ妃として迎え入れた。まことにめでたい。そなたもそう思うであろう」
「…」
 遠智媛は組んでいた指先を固く握りしめ、床を見つめておりました。
 皇子はもう一度杯を干し、険しい皮肉の笑みを浮かべながら、
「これからは造媛が正妻となり、倉山田家の大刀自《女家長》の地位も受け
継ぐことになろう。そなたはあくまでも姉の身代わり、一時代わりを勤めたに
過ぎない。石川麻呂のおかげで政《まつりごと》も落ち着いた。
そなたにも感謝はしている。今後は右大臣の娘として、達者に暮らすといい」
 遠智媛は気性の強い方だったので、涙で皇子様のお情けを乞うような真似は
なさいませんでした。そうした強さが、かえって皇子の機嫌を損ねたのか、
「その目つきは何だ。私を怨んでいるのか。石川麻呂は我が子可愛さの
あまり私を騙して、実の娘を押しつけた。そなたは身代わりなどではない、
姉の地位を奪った盗人ではないか。もし造媛に危害を加えるようなことが
あれば、容赦はせぬから、そう思え」
と、きつい口調で言い放ったのでした。
 遠くから、幼児の泣き声が鋭く沈黙を引き裂き、遠智媛は身を翻して奥に
駆け込みました。泣いている姫君を抱きしめると、その体に顔を押しつけ、
声もなく涙を流したのでした。
 皇子がことさら遠智媛を憎んでいたとは思えませぬ。
 「過去の妻」になったに過ぎないのです。
 遠智媛にとって、憎まれた方が忘れられるよりどれだけ楽だったことで
ございましょう。捨てられた女には過去を思い出す以外にはないのです。
 
 大化元年(645年)冬、正式に難波京への遷都の詔(みことのり)が下され
ました。

 難波の地は古来より筑紫や東国へ向かう船旅の要所として、栄えておりました。
 かつては大雀命《おほさざきのみこと=仁徳天皇》の宮もあった、という
言い伝えもございます。その後都が飛鳥に定まってからは、難波に都が置か
れることはありませんでしたが、蘇我本家が滅びたことで、にわかに遷都が
決まったのでした。血なまぐさい思い出を少しでも早く払拭したいという、
皇子のお気持ちがあったに相違ありませぬ。
 
 難波京への遷都の途中、飛鳥京では不吉な出来事がありました。
 人の減った宮殿に野猿が侵入して、鳴き騒いだそうでございます。
 猿が人里に現れることなど、飢饉の冬でもないかぎり、滅多にありませんでした。
 人々はこれを「都が荒れる前兆だ」「野猿は伊勢の神の使いというではないか」
と噂し合って気味悪がり、命令に従おうとしませんでした。
 そんなわけで建物などは計画通り次々と完成していっても、遷都そのものは
遅々として進みませんでした。

 しかし中大兄皇子は人の思惑などお構いなしに孝徳天皇を速やかに難波へと
遷御《せんぎょ》させ給い、ご自身も皇族方を連れてさっさと移ってしまいました。
 造営されたばかりの都はどこも木の香りも初々しく、海に近い立地もあって
陽光の明るさは、真新しい屋根瓦に反射して眩しいほどでございました。

 宮中の庭には各地から集めてきた奇岩を積んで築山を作り、乙巳の変の後に
左大臣となった阿倍倉梯麻呂《あべのくらはしまろ》や、右大臣倉山田石川麻呂
なども、率先して自らの屋敷を飾り立て、遷都の雰囲気を盛りあげようとなさいました。
 ようやく世間も落ち着いてきて、庶民の市など立ち始めると、自然と人の
往来も増えて、小さいながらも難波は日に日に都らしくなってまいりました。

 けれど中大兄皇子は、今では難波の地に居心地の悪さを感じておりました
 本心を言えば、すぐにでも飛鳥に帰りたくてならなかったのです。
 一方、石川麻呂も、父の代から続いている山田寺建立を視察するために