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紫の夜語り〜万葉集秘話〜

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 周囲では無知な下女たちが黙々と火を焚き、床を清め、朝夕の膳を用意して
待っております。
 造媛はいつものように質素な膳を食べ終えると、就寝前の一時を、傍らに
思い焦がれる人の幻影を置いて、婚礼の晩に身につけた、華やかな盛装の一部
始終を思い浮かべるのでした。
 髪を最新の唐風に高く結い上げて、額や頬だけでなく、うなじにも白粉を
はたき、額に飾った桃色の花の花鈿《かでん》も愛 らしく、薄紅色の上着の
上に、桃色の領巾《ひれ》を身にまとい、 贅を尽くした装いでございました。
 傍らに寄り添う幻の花婿は、どこかに早世した父の面影を留めた、美しく
凛々しい若者でございました。

 造媛《みやつこひめ 》が正気であったことは、 間違いありませぬ。
 その証拠に、久しぶりに訪れた日向《ひむか》か ら,都はとうに難波に
移り、大和にはもう皇子はおいでにならないと聞いても,取り乱すことは
ありませんでした。

「春になって気候が良くなり次第、難波へ参りましょう」
 という日向の言葉に、造媛はただ静かに頷いて、
「日向様。さきほどのお話では、石川麻呂は右大臣となり、皇子に嫁いだ遠智媛
は2人目の姫を生んだとお聞きしました。そんな時に私が皇子様の元へ行ったと
しても、ご迷惑になるだけではないでしょうか。私も遠智媛を恐れて暮らし
たくはありませぬ」
 きっぱりとした返事に、日向は、
(可哀想な方、何とかしなければ)
と、ただ哀れむだけだったことを見透かされたような気がして、思わず、言う
べきかどうか、迷っていた言葉を口にしました。
「実は都が難波に移ったとはいえ、一朝一夕にすべての宮や官舎が移動できる
はずもございません。大和は長年都が置かれてきた土地、運ぶべき宝物も書類
も数多く残っておりますので、大臣や皇族方も大和と難波との間を行き来なさ
っている状態です」
「その中に、中大兄皇子様もいらっしゃると…」
「はい、何度も大和におもどりになっているとお聞きしています」
「ではなぜ私をお迎えに来て下さらないのでしょうか」
 造媛の目が急にすがりつくような、憂いを帯びて光り輝きました。
「政《まつりごと》や遷都の件で御忙しく、つい後 回しになってしまうので
ごさいましょう。次に皇子が大和においでになる時にはかならず、私がお連れ
いたします。約束します。ですから、早まった行動はなさらないで下さい。
大和へは、遠智媛も山田寺建立の様子を見るために来ることもある
そうです。万が一、このことが知られたら、危害に及ぶかも知れません。
どうぞお気をつけて下さい」
「わかりました」
 日向は、今度こそ先延ばしにしてきたこと…皇子に真実を申し上げる…
をやり遂げようと心にい誓っておりました。
 勇気のいる賭でございます。日向自身、造媛をさらった張本人だと讒言され
ている身ですから、皇子が信じて下さるかどうか、当てにはなりませぬ。
 また、石川麻呂の耳にでも入れば、造媛もろとも抹殺される危険もありましょう。
 けれど、皇子の信頼を勝ち取らなければ、将来は暗く閉ざされたままなのです。
 「遠智媛を恐れて暮らしたくはありませぬ」
 造媛の言葉に、自分がここ数年、時代の趨勢に押し流されて、自信も誇りも
忘れていたことを改めて思い出したのでした。

 日向が去って十日ほどたった頃、造媛はふと時間つぶしに眺めていた木簡
の中に、ある古い歌を見つけました。

 君が行き日長くなりぬ 山たづね迎へか行かむ  待ちにか待たむ(万葉集第二巻)

 (あなたが去ってからすいぶん日数が経ちました。山を探し歩いて迎えに
いくべきでしょうか、それともこのまま待ち続けるべきでしょうか)
 見る者を内側から突き動かす生々しい感情に、造媛の心は震えました。
 突然、姫の耳に自分を取り巻いている事実が、天からの声のように響きました。
(今のままでは、決して皇子様は迎えには来ない)
 本当なら絶望してもおかしくないはずなのに、かえって造媛の心は浮き立ちました。
(待っていても仕方ない。こちらから迎えに行かなければ)
 造媛は服を白い簡素なものに着替え、髪を後ろに束ねると、被布(かずき)
を顔が隠れるぐらい深くかぶりました。
 顔を輝かせて廃寺を去る後ろ姿を、下女達が愚鈍そうに見送りました。

 その日は朝から灰白色の曇り空でした。
 今にも粉雪が落ちてきそうな空の下を、造媛《みやつこひめ》は被 布《かずき 》
をかぶり、凍えた指先を吐息で温めながら、歩き続けました。
 飛鳥京の大路で日は暮れかかり、空気は藍色に染まっていきます。
 噂で聞いていた皇子の宮の壮麗さ…
 大路に面した、御所にも負けぬ大きさの屋敷といえば、行く手に、煌々と
松明を焚いている大門に間違いありませぬ。
 主の帰りを待ちわびて、火の粉が雪空に舞い上がっております。
 おりしも脇の道から灯りを手にした従者に先導された、馬上の若者が姿を見せました。
 その顔は、気まぐれな炎に照らされて影になり光になり、はっきりとした輪郭
は見えません。けれど造媛はその人こそ、皇子だと確信したのでした。

「皇子様…」
 造媛は被布《かずき》を脱ぎ捨てて、皇子の名を 呼びながら走り出しました。
 雪のかけらが舞い散り、凍える寒さでございます。
 雪で湿った地面に沓《くつ》をとられて倒れ、起 きた時にはもう片方の沓を
失っていても、皇子だけを見つめて走り続けました。
 気がついた時には皇子は馬から下り、すぐ目の前に、手を伸ばせば届く位置に
立っておりました。
 もう一度倒れた時、皇子は泥がつくのもかまわず、姫を助け起こし、
「あなたは造媛なのか」
 声も枯れて言葉にならない造媛は、かろうじて小さくうなづくと、満足の笑み
を浮かべたまま意識を失いました。

 造媛の体は介抱を受けているうちに、落ち着いた呼吸を取り戻し、手足にも
温かい血が戻ってまいりました。
 微かに瞼をあけて、そこに人がいるのを確かめると、再び安堵の眠りの
中へと落ちていく…そうやって眠りと覚醒とを繰り返し、三日目の朝、造媛は
目を覚ましました。
 女官に助け起こされ、造媛ははじめて中大兄皇子と向き合いました
 何の飾り気もなく、朝日の中にたたずんでいる姿は、無垢な女神の降臨の
ように、神々しいまでの清澄さに満ちて、皇子は長い間探していたものを
見つけたかのような、深い安堵感に包まれたのでした。

 数日後、造媛は女官達の手で装いを改めました。
 髪を結い上げて金の歩揺《かんざし》を飾り、薄 紅色の上着に、桃色の
領巾《ひれ》を身にまとい、まるで雪の中に咲いた 紅梅のようでございました。
 導かれるまま、中庭に面した大広間へ参りますと、一面雪で覆われた庭園を
背景に 婚礼や祝いの席に欠かせぬ楽人たちが笙《しょう 》篳 篥《ひちりき 》
羯鼓《かっこ》を手にして、越天楽の曲を、ある時 は地を這うように厳かに、
ある時は舞い上がるように高く低くかき鳴らし、花嫁と花婿の聖なる契りを
祝福したのでした。
 中大兄皇子もまた盛装で造媛に寄り添い,その手に手を重ねました。
 その瞬間、二人の間を隔てていた年月と、石川麻呂や遠智媛らの企みは