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紫の夜語り〜万葉集秘話〜

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 婚礼は予定通り行われました。
 ただし花嫁は造媛ではなく、妹の遠智媛《おちひめ》で した。
 遠智媛ご本人は、美人とは申せませんでしたが、髪を最新の唐風に高く結い上げて、
額や頬だけでなく、うなじにも白粉をはたき、額に飾った桃色の花の花鈿《かでん》
も愛らしく、贅を尽くした装いでございました。
 何より皇子の興味を引いたのは、豪勢な装いに一歩も負けない、落ち着きぶり
でした。まるで初めから、予定通りだったような…?
 遠智媛は皇子の手に手を重ね、うるんだ瞳で見上げながら、
「あなたは私の夢の中の人。やっとお会いできて、うれしさのあまり息がをする
のを忘れてしまいそうです」
と、密かな恋心を打ち明けたのでした
 皇子は、どこからか涌いてくる微かな違和感を持てあましながら、最高の
微笑を浮かべて、うなずきました。
 美貌の噂高かった造媛でないのは残念でしたが、この女が妻でいる限り、
計画が頓挫しても石川麻呂に裏切られる恐れは少なかったのです。

 婚礼の日を境にして、石川麻呂の屋敷では、造媛の名前も気配もいっさい
消えてしまいました。石川麻呂や遠智媛はもちろん、侍女や下働きの者まで、
造媛がいたことなど忘れてしまいました。
 やがて皇子も、造媛の話など空耳ではなかったのか、と苦笑を交えてと思う
ようになりました。

 大化三年(647年)
 乙巳の変で蘇我大臣一族が滅ぼされて二年。
 動乱の余韻が強く残っていた頃…
 宮廷は血なまぐさい飛鳥京を嫌って、新たに難波京へ移りました。
 とは申せ、まだ半分しか完成していない新都の宮殿は居心地が悪く、
中大兄皇子も、飛鳥にもどっては難波に出直すという日々を過ごしておりました。

 真冬。
皇子は所用があって深夜に帰宅なさいました。恋人の家によったのであれば
一晩過ごして帰るところを、本拠地を難波に移したと同時に、愛人の方々も
全員あちらに移っており、寂しい夜を過ごさざるをえませんでした。

 一日中空は乳白色に濁り、昼間から霜が立ちそうなほど冷えた一日でした。
 寒さを我慢して、ようやく我が家の灯りが見えた時には、皇子も従者もともに
安堵で心が躍りました。中では留守番役が部屋を暖め、熱い風呂と酒を用意して
待っておりました。

 門をくぐろうとした時、鋭い女の呼び声が無理やり一同をふりむかせました。
「中大兄皇子様!…皇子様でいらっしゃいますね!」
 叫び声はだんだん近づいてきて、ついに従者が持つ松明の光の中へ…
 皇子の目の前に姿を現したのでした。
 その女は白い綿の着物をまとい、走っているうちにほどけた髪を波打たせながら、
皇子に向かって両腕を広げました。
 一同は、雪がうっすらと積もり始めて、白く染まった地面の上に、一羽の
白い鳥が羽ばたきながら舞い降りる幻を見た気がいたしました。
 雪の上に点々と続いている素足の跡…
 女は皇子の目の前で、重みなどないかのように、音もなく倒れました。
「まさか……造媛…」
 皇子はとっさに口走りました。
 濡れた土と雪にまみれながら、皇子は女を抱き上げ、もう一度名前を呼びました。
「あなたは造媛なのか」
 姫は小さくうなづいて、意識を失いました。

 いったい何があったのか…
 すべてをお聞かせする前に、倉山田家の事情について、お話しなければなりませぬ。

 石川麻呂には腹違いの兄弟が三人おりました。
 日向、赤兄、贄麻呂《にえまろ 》
 中でも贄麻呂は長子として倉山田の家督を継ぎましたが、間もなく本妻との
間に、一人娘を残して亡くなりました。
 その娘こそ、造媛《みやつこひめ》でございま す。

 男が官位と家長の座を継ぎ、娘が家屋敷を継ぐのが、世の定め…
 順番からすれば、造媛が倉山田の家屋敷を継ぐはずでしたが、幼かったのを
よいことに、石川麻呂が全財産を着服し、その埋め合わせのように造媛を
引き取って、自分の長女だと偽りました。
 ですから、皇子の「長女を妻に迎えたい」との申し出に、ひどく慌てて
しまったのです。形式とはいえ長女は長女…断るわけにもいかず、かといって
そのままいけば、造媛の口から真実がばれてしまうことは間違いありませぬ。
 何より兄の娘などではなく、実の娘の遠智媛を、玉の輿に乗せてやりたかったのです。
 親として、当然の情でありましょう。

 石川麻呂は考えた末に、異母弟の日向に事情を話して仲間に引き入れました。
 「婚礼の当日だけ、造媛をどこかに隠してくれ」と。
 日向は言われた通り、造媛を騙して、用意しておいた廃寺に連れて行って
一段落してから兄の元にもどってくると、屋敷の門は目の前で固く閉ざされて
おりました。
「よくも図々しく顔を出せたものだ。おまえは造媛と駆け落ちした不埒者、
二度と倉山田の家に顔を出すな。造媛もはやこの家の者ではない。
失せろ」
 兄の裏切りに、日向は呆然と門の前に立ち尽くしました。
 石川麻呂は造媛だけでなく、異母弟まで騙して追放したのです。

 造媛は事実を知っても、それほど驚いた様子もなく、後悔と怒りに体を
震わせている日向を、哀しみに沈んだ瞳で見つめておりました。
 自分の身よりも、己の感情を持てあまして苦しむ日向の方が哀れでならなかった
からでございます。
「私はどうすればよいのでしょうか」
「あなたを騙したことは深く悔いています。けれどすでに遠智媛が皇子
の妃になって、石川麻呂は皇子の側近となっています。無官で非力な私には
どうすることもできません。せめて身の回りの世話をする者を増やし、服や食料
は十分届けますから、もう少しここに隠れていて下さい」
「いつまで?」
「わかりません。時期を見て、私から皇子に事情を話し、迎えに来てもらえる
ようにいたします。それまで我慢して下さい」

 廃寺は、聖徳太子の御代に建てられ,その後僧侶もいなくなり、今は
寂れた金堂だけが残っている寺院跡でございます。
 里からさほど離れてはおりませんでしたが、人の往来はありませぬ。
 風の音は囁きとなり、時には造媛をいたわるように優しく、時には内面に渦巻く
疑問を代弁するように荒々しく金堂の壁を揺さぶり、鋭い音を立てて天井を
吹き過ぎていきます。
 まったく変化のない静寂の中で、己の内側だけを見つめる生活…。
 頼れる人もなく、心配してくれる相手もいない不安は、意識に上らないだけに
かえって深く深く内側に根を下ろし、信仰にも似た強い信念の花を咲かせたのでした。
(きっと皇子様が迎えに来て下さる)

 二度目の夏、夕暮れ時になると、木立の間を鋭く残照が切り込み、ひぐらし
の鳴き声が地からわき上がります。耳を塞ぐ蝉の声に、姫は一心に祈り続けました。
 新しい知らせもなく、人の行き来もなく、都も倉山田の家も現実味を
失っていく中で、ただ1つの言葉だけが確信に満ちて響きました。
(きっと迎えに来て下さる)

 やがて蝉が死に絶えて、つかの間の静寂がもどると、限りなく紺碧の空
から降り注ぐ秋の日射しに、子供のような無邪気な微笑を向けながら、約束の
日が来ることを一心に願いました。
 話し相手といえば、月に一度、様子を見に来る日向だけ。