人工的ロマンス
間違い電話かと、通話ボタンを押して電話を耳に当てる。
「もしもし?」
『もしもし、佐々木千佳さんのお電話でよろしいでしょうか』
疑問の形を取っているが、相手は間違っていないと確信しているようだ。
千佳はなんだか懐かしいような嬉しいような、どう表現していいのかわからない気持ちになった。
きっと千佳の携帯電話を直接調べて番号を出したのだろう。
時間はいくらでもあったし、千佳は携帯にロックを掛けていなかった。
「私の電話で合ってるよ、柴田くん」
一週間ぶりの声は深く耳に沁みた。
会いたいと請われて、駅前のドトールを選んだ。
電話があったのが十時半で待ち合わせは十一時。
時間的な余裕はない。
急いで着替えて軽くメイクをして、中身のスカスカな財布を突っ込んだ鞄を肩に掛けて千佳は走った。
アパートから駅までは徒歩で十五分、走ればその半分で着くだろう。
果たして、ぎりぎり十一時前に滑り込んだドトールでは、既に柴田が席を取って悠々とコーヒーを飲んでいた。
「こんにちは」
「こん、にち、は、」
息切れの合間に挨拶を返す。
体力の衰えを感じながら千佳は柴田の正面の席に倒れ込むように腰掛けた。
「何か飲みますか?」
各席にメニューはない。千佳はレジの上にあるメニューの値段と財布の中身を吟味し、水だけでいいと夏の最中にホットコーヒーを飲んでいる柴田に伝える。
金がないと言えば奢ってくれそうなものだが、同年代に奢ってもらうのは気が引ける。
とはいえ、一時期は監禁され、生活の世話を全部見て貰っていたこともあるが。
水を持ってこようと立ち上がろうとした千佳を制して、柴田がレジに向かった。
レジのすぐ横に水があるので何か頼むついでに持って来てくれるのかもしれないと、千佳は柴田を目で追う。
店員さんに渡されたお盆には背の高いグラスが一つ。
やはりホットを飲むには暑かったのかと思いながら柴田を見ていた。
水を取りに行くかと思えば、お盆を持ったまま席に帰ってくる。
背の高いグラスはそのまま千佳の前に差し出された。
「アイスココアでよかったですか?」
甘いのは嫌いではないですよねと尋ねられて思わず頷く。
だが千佳は奢ってもらう気などなかったのだ。
「えっと、お金払うね」
「いえ、結構です」
財布を出そうとしたまま戸惑う千佳を一瞥、柴田はコーヒーに口を付けて、それ以降の問答をする気はないと態度で示す。
こういう時の柴田は何を言っても聞き入れないと二週間の内に知った千佳は、大人しく財布をバッグの中に仕舞った。
「警察に通報しなかったんですね」
「え?」
千佳は思わぬ言葉に反射的に聞き返す。
「拉致監禁は立派な犯罪ですよ」
犯罪とわかっていて何故やったのか。
言い返そうと思えば言い返せるのに、千佳は口の中でもごもごと言葉を持て余す。
真っ直ぐな視線が痛い。
「だって、別に痛かったり苦しかったりとか、なかったし……」
漸く口を突いて出たのはそんな言葉だった。
自分でもどうかと思うような台詞だったが、千佳にはそうとしか言い様がなかった。
何故通報しなかったのかなど自分でもわからないのに、人に説明することなどどうしてできようか。
「そうですか」
千佳の葛藤を素知らぬ顔でコーヒーを飲む柴田が、少しだけ恨めしく思えた。
そもそも誰のせいでこんなことになったと思っているのか。
悩んでいるのは千佳の勝手でありそれは責任転嫁だと知りながらも、彼女はじっとりと柴田を睨むように見つめる。
「少なくとも、俺に嫌悪感とかはないんですね」
「うん」
千佳は素直に肯定した。
あの生活を思い出しても、柴田に嫌悪感などない。
それに、嫌だったら呼ばれても会ったりしない。
千佳の顔に偽りがないと見ると、柴田は相変わらず変わらない表情でじゃあと切り出した。
「俺と付き合ってくれませんか」
ここで、「何処に?」などと尋ね返すほど、千佳は鈍感でも野暮でもなかった。
柴田が自分のことを好きなのだという事実を噛みしめてみる。
付き合えば、きっと彼は千佳を大切にしてくれるだろう。
着かず離れず、まるで空気のように振舞うに違いない。
そしてこちらが欲するものを過不足なく与えてくれるだろう。
それが愛情であれ何であれ。千佳には確信があった。
きっと彼の傍は居心地がいい、あの白い部屋の中のように。
「いいよ」
気付けば千佳はそう答えていた。
自分は彼が好きなのだろうか。
小さな疑問に心の中で首を捻る。
少なくとも、嫌いではない。
拉致監禁などという行動を起こした割りに柴田は紳士的だし穏やかな性格をしている。
乱暴なことをされたわけでもないので、嫌う要素があまりなかった。
あんなに近くにいたのに、今では離れて暮らしているというのが少し寂しく感じたこともある。
柴田のことが好きなのかもしれない。
千佳はそう納得することにした。
氷の解けたココアは、それでもやはり甘かった。