こうして戦争は始まった
「もしもし? あ、おじさん? 駅に着いたのね? じゃあいまからそっちに行くね。 え? お婆ちゃんとカラオケ中。ここまで来るの? じゃ、お店の名前言うねー? えっと……」
俺は携帯電話をズボンのポケットに押し込んだ。
『歩き煙草禁止!』『喫煙は所定の場所で!』
次々と目に入る景観を損なう立て看板に、携帯電話の変わりに取り出した煙草を胸ポケットに移すのが精一杯だった。
「なんとも肩身の狭い」
三階建てのアパートが大きく見えてしまう街並み。人影は見えないが、閑散とした雰囲気などは微塵も感じられず、辺りを包んでいるのはほんのりとした温かな静けさだった。もちろんセミの合唱はここでも流れているのだが、耳障りとは思わないのだ。
商店街のアーケードを抜けると、比較的新しい建造物が目立つようになる。
不思議なもので、先ほどまで心地良いとさえ感じていたセミの鳴き声が、途端に不愉快な暑さを纏ったものへと変貌する。
アーケードの屋根がなくなったせいなのか、風の流れが悪いのか、ともかくここは完全に別の場所だ。俺のような灰と黒とに慣れきった人間がいる“こちら側”に近い場所だ。
「ここですよ」
小さく手を振る母を見つけた俺は、同じように小さく手を振って走り寄った。
「母さんがカラオケとはね。驚きを通り越しちまって、何にも感じないよ」
「あんたはやらないのかい?」
「生憎、そんな時間があったら寝るようにしている」
「そうかい、とにかく身体にだけは気を付けておくれよぉ」
「母さんこそ、孫に合わせて無理するんじゃないぞ」
「あたしゃ楽しませてもらってるよぉ。まだまだ長生きせんならん」
「そう願う」
俺が店の中に足を踏み入れようとすると、母は腕を取ってそれを止めた。
「中にいるんじゃないのか?」
「あの子はもうじき出てくるさぁ」
入口の横に灰皿が備え付けてるあるのを見つけ、煙草を取り出し火を点けた。
「去年はケンカばかりしてた二人が一緒にカラオケなんてな」
「やっぱり、ケンカしてるように見えてたんだねぇ」
返事の代わりに煙を吹く。
「あたしみたいな年寄りには、いまの若い子の悩みを解決してやることはできないよ。せめて、正面から向き合ってやるぐらいしかできないんだよぉ」
多くの人間は、教える側に立ったときに初めて厳しさと優しさが≒で結ばれていることに気付く。記者になると言って家族の反対を押し切り家を飛び出した俺は、そのことに気付くために大きな代償を支払うハメになった。
何の打算も含んでいない自分の意思だけを胸に、ただ純粋に相手のことを考えて真っ向から向き合える大人がどれほどいるだろう。
「この婆は、あの子の悩みを解決してやれなんだ。力になってあげておくれ」
「母さん……」
行き過ぎた部分もあったかもしれない。しかしそれは、誰よりも心配して真剣に考えてくれていたという証に他ならない。
「今夜は泊まっていくのかい?」
「そのつもり」
「なら、あたしゃ先に帰ってご飯の支度をしてるよぉ」
母は俺を置いて駅に向かって歩き出す。
その小さな背中は間違いなく母の背中であり、間違いなく親の背中だった。
「あれ? お婆ちゃんは?」
母が駅方向に消えて、更にそれから煙草一本分の時間が流れた頃、ようやく主役のお姫様が登場した。
「先に帰るってさ」
「ふーん。ねぇねぇ、おじさん。取材って写真撮ったりするの? だったら着替えたいな」
思春期の少女はキラキラと笑った。
その笑顔に一年という月日の長さを改めて感じる。彼女がまだまだ子供であることには変わりないが、随分と大人になったようにも見えた。
「写真は撮らないよ」
「えー 写真ぐらいイイじゃん、ケチ」
「“写真ぐらい”でガタガタ言うんじゃないよ」
俺は携帯電話をズボンのポケットに押し込んだ。
『歩き煙草禁止!』『喫煙は所定の場所で!』
次々と目に入る景観を損なう立て看板に、携帯電話の変わりに取り出した煙草を胸ポケットに移すのが精一杯だった。
「なんとも肩身の狭い」
三階建てのアパートが大きく見えてしまう街並み。人影は見えないが、閑散とした雰囲気などは微塵も感じられず、辺りを包んでいるのはほんのりとした温かな静けさだった。もちろんセミの合唱はここでも流れているのだが、耳障りとは思わないのだ。
商店街のアーケードを抜けると、比較的新しい建造物が目立つようになる。
不思議なもので、先ほどまで心地良いとさえ感じていたセミの鳴き声が、途端に不愉快な暑さを纏ったものへと変貌する。
アーケードの屋根がなくなったせいなのか、風の流れが悪いのか、ともかくここは完全に別の場所だ。俺のような灰と黒とに慣れきった人間がいる“こちら側”に近い場所だ。
「ここですよ」
小さく手を振る母を見つけた俺は、同じように小さく手を振って走り寄った。
「母さんがカラオケとはね。驚きを通り越しちまって、何にも感じないよ」
「あんたはやらないのかい?」
「生憎、そんな時間があったら寝るようにしている」
「そうかい、とにかく身体にだけは気を付けておくれよぉ」
「母さんこそ、孫に合わせて無理するんじゃないぞ」
「あたしゃ楽しませてもらってるよぉ。まだまだ長生きせんならん」
「そう願う」
俺が店の中に足を踏み入れようとすると、母は腕を取ってそれを止めた。
「中にいるんじゃないのか?」
「あの子はもうじき出てくるさぁ」
入口の横に灰皿が備え付けてるあるのを見つけ、煙草を取り出し火を点けた。
「去年はケンカばかりしてた二人が一緒にカラオケなんてな」
「やっぱり、ケンカしてるように見えてたんだねぇ」
返事の代わりに煙を吹く。
「あたしみたいな年寄りには、いまの若い子の悩みを解決してやることはできないよ。せめて、正面から向き合ってやるぐらいしかできないんだよぉ」
多くの人間は、教える側に立ったときに初めて厳しさと優しさが≒で結ばれていることに気付く。記者になると言って家族の反対を押し切り家を飛び出した俺は、そのことに気付くために大きな代償を支払うハメになった。
何の打算も含んでいない自分の意思だけを胸に、ただ純粋に相手のことを考えて真っ向から向き合える大人がどれほどいるだろう。
「この婆は、あの子の悩みを解決してやれなんだ。力になってあげておくれ」
「母さん……」
行き過ぎた部分もあったかもしれない。しかしそれは、誰よりも心配して真剣に考えてくれていたという証に他ならない。
「今夜は泊まっていくのかい?」
「そのつもり」
「なら、あたしゃ先に帰ってご飯の支度をしてるよぉ」
母は俺を置いて駅に向かって歩き出す。
その小さな背中は間違いなく母の背中であり、間違いなく親の背中だった。
「あれ? お婆ちゃんは?」
母が駅方向に消えて、更にそれから煙草一本分の時間が流れた頃、ようやく主役のお姫様が登場した。
「先に帰るってさ」
「ふーん。ねぇねぇ、おじさん。取材って写真撮ったりするの? だったら着替えたいな」
思春期の少女はキラキラと笑った。
その笑顔に一年という月日の長さを改めて感じる。彼女がまだまだ子供であることには変わりないが、随分と大人になったようにも見えた。
「写真は撮らないよ」
「えー 写真ぐらいイイじゃん、ケチ」
「“写真ぐらい”でガタガタ言うんじゃないよ」
作品名:こうして戦争は始まった 作家名:村崎右近