こうして戦争は始まった
大人より――
電車の窓から見える田園風景は、何年経っても変わり栄えがない。尤も、その原因は年に一度しか帰ってこない俺の方にあるのだろうが。
緑色した羽の扇風機が回る電車内には、一人しか乗客はいない。つまりは俺だけってことだ。
緑色。緑色。緑色。
灰と黒とで覆われる都会で生きている俺には、この広大な緑色は目に痛いばかりとなる。目線を上に退避させたところで、今度はうっとおしいぐらいの青に染められてしまうことは分かっている。退避させるなら下だ。
俺は足元を見る。
そこにあったのは、かさかさにひび割れた手。皺だらけのスラックス。擦り減ったボロ靴。
そこにあったのは、いまの俺のすべて。
電車は、青と緑だけで描けそうな風景に溶け込みながら、ゆっくりと進む。
ガタン ガタン
俺は何も目に入れたくなくなって、背もたれに身体を預けて目を閉じた。
半開きの窓からは、ぬるい風が流れ込んでくる。田舎特有の音と香りとを引き連れたそれは、普段の俺の生活では御目に掛かれない代物だ。だからといって、愉しむこともなければ、有り難がることもない。通常ならば懐かしいという感情を抱くのだろうが、生憎、俺にはそんな感情も芽生えはしない。
ヒグラシだか、カワセミだか、ツクツクホーシだか、とにかくなんだか知らんが、夏をより夏にする特技を備えた生き物の鳴き声は止むことを知らない。しかし、都会で耳にする鳴き声とは明らかに違う。違うと気付くのは大人になってからだが、何が違うのかを言い表す言葉は、大人になると同時に忘れた。
ミンミンジワジワツクツクホーシ
俺は新聞記者をやっている。地方記者というやつだ。俺は実家へと向かう電車に揺られているが、盆休みの帰省ではない。記者には盆も正月もない。
従って、これは仕事だ。
現在、ほとんどの小中学校において夏休みの八月六日または九日を登校日として平和授業が行われている。八月十五日は終戦記念日となっているが、日本以外の国では戦勝記念日などの名前で呼ばれている。しかし、そういうことには授業では触れられない。国や地方自治体の方針に沿った授業が行われているが、十中八九は作文で締められる。
その作文の中から優秀なものを集め、市や地方自治体、東西日本、全国などの規模で大会が開催される。
だが、俺に言わせりゃ“クソ喰らえ”だ。
年に一度、それも片手でお釣りが出る程度の時間内に刷り込まれた知識で書かれた薄っぺらいものばかりだ。詰め込まれた知識で尤もらしく繕われた哀れな作文に、知識人・文化人ぶった奴らが花丸をつけて自尊心を保つための大会だ。
同じテーマで書かれた主張に“優劣”を付けている時点でおかしくないか?
上から目線で見てる奴らがいるってことだろう?
……話を元に戻そう。
俺はいま、実家に向かっている。
兄の中学二年生の娘が書いた“クソ喰らえ平和作文”が“優秀”と判断されて、市大会で大勢の面前で読まれることになった。
そこで、地域密着を掲げる地方紙の記者である俺が、姪である彼女を取材することになったってわけだ。
ミンミンジワジワツクツクホーシ
あぁっと、思い出した。
たしか、カワセミは鳥だったな。
作品名:こうして戦争は始まった 作家名:村崎右近