「月傾く淡海」 第七章 倭文と香々瀬
その情勢を聞いた物部荒鹿火は、恐らく大伴と手を組んだ葛城一族の計略だろうと予測した。
荒鹿火は、『盟主』が誰になろうと、最早「男大弩の大王」が優勢なのは揺るがしがたい事実であるし、後は列城宮さえ落としてしまえば勝敗は決するのだから、このまま大和入りを進めるべきだと主張した。
「男大弩の大王」である深海は、荒鹿火の意見に賛同した。彼の考えは正しいし、戦略上も問題ない。
--しかし、真手王の最期の言葉を受け取った深海には、別の目算があった。
真手王は、死ぬ前に言ったではないか。
『次に大王を名乗る者の中に、《あいつ》はいる』--と。
橘王を追い落とし、列城宮で新たなる大王を名乗った者--それが、「葛城の大王」という男だ。
おそらく「葛城の大王」の中に、真手王を操り、死に追いやった元凶が--真手王が見たという『赭い星』がいるのだ。
「男大弩の大王」が目指すのは、列城宮の攻略。
--だが、『深海』の目的は、「葛城の大王」を討つこと。……それだけだ。
昏い決意に支えられた深海は、軍を率い、豪族や民に歓呼の声で迎えられながら、遂に大和の地に踏み入った。そして彼らは勢いのまま行軍を進め、とうとう列城宮の前にまで到達したのだった。
軍備を整え、臨戦の状態で列城宮をとり囲んだ深海は、宿敵の牙城を眼前にして喫驚した。
そこには、宮を護るべき一兵の姿さえなく--列城宮は、激しい火炎を夜空に立ち上らせながら、燃えていたのだ。
「これは……」
火焔に包まれる列城宮を見つめて、深海は絶句した。 かつて国を治めた大王が坐し、大和の中心であった宮殿が--炎に呑まれ、ただの瓦礫と化しつつある。
いったいこの宮の中で、何が起こったのか。「葛城の大王」はどうなったのか……。
暗い闇夜の中で荒れ狂う紅蓮の炎は、禍々しく不吉に見えた。
深海は馬に乗ったまま、燃え行く宮を呆然と眺めていたが、やがて彼の前に一人の男が唐突に現れた。
「汝は……金村ではないか!」
大将軍として、深海の傍らで馬上にあった荒鹿火は、男の姿を見ると愕然と叫んだ。
「大伴の……金村!?」
深海も驚いて男を見下ろす。
これが、深海たちに対抗して軍を率いていた、この列城宮の大将だというのか。
「……大伴の大連、金村にございます。男大弩の大王」 金村は、深海に向かって深々と拝礼した。
将軍であるはずの彼は、一切の供人をともなっていなかった。また金村は、この場にあって鎧はおろか、太刀一つその身に帯びてはいなかった。
「--これはどういうことか、大伴の。汝が担いでおった、『葛城の大王』とやらはどう
した!」
荒鹿火は、馬上から金村を厳しく問いつめる。
「……我らは、『葛城の大王』なる者を仰いだことなど、ございませぬ」
「なに!?」
声を荒げる荒鹿火を無視し、金村は深海に向かって平伏した。
「男大弩の大王に申し上げまする。臣(やつがれ)は罪せらるるとしても、あえて命(おおみこと)を承ることはございませぬでしょう。古人の言う、『匹夫の志も奪うはかたし』とは、まさに臣のことにございます」
「……どういうことですか」
深海は固い表情で問うた。
金村の言葉は、宮廷内で大王への奏上に使われる、文飾に満ちたものであった。
あえてその口上を使ったことで、彼の尋常でない決意は理解できるものの、一体本心は何を言いたいのか、彼の意は漠然としていよく分からなかった。
「確かに、臣は新たなる大王となる御方として、橘王さまを奉じておりました。そのゆえは、かの君が「足仲彦の大王」の血を受け継がれる、王裔であられるからです。しかし、自らの野心に目の眩んだ葛城首長・香々瀬なる佞臣が恐れおおいことに橘王を弑逆し、皇位の簒奪を宣言しました。香々瀬は『葛城の大王』を僭称して宮を支配しましたが、臣はその大儀なき専制を耐ゆるにしのびず、機を見て叛臣・香々瀬を誅殺いたしました」
金村は平伏したまま、一気に申し述べた。
--金村は、必死だった。
今、この瞬間に、金村と、大伴一族全ての命運がかかっているのだ。
奇っ怪な装束を身に纏った「葛城の一言主」とやらが若い娘を引き連れて「葛城の大王」の所にやってきた時、金村はすぐそばの室に潜み、息を呑んでその一部始終を盗み見ていた。
「葛城」に関わる三人の間で行なわれた出来事は、現実主義の武人である金村の理解の範疇を越えるものだった。
しかし、とにかく全てが終わったらしき時、金村の前に示されたのは、三つの事実だった。
「葛城の一言主」は消滅し、娘は姿を消し--大王の間には、短い間「葛城の大王」を名乗った香々瀬の遺骸だけが残っていた。
香々瀬の亡骸を前に一人立ち尽くした金村は、その場で必死に考えた。
今後、大伴一族と自分が生き残る方法を--。
「では、汝が……『葛城の大王』を討ったというのですか!?」
衝撃を受けたように、馬上で深海が叫んだ。
「--は。これが、かの叛臣の遺髪にございます」
顔を伏せたまま、金村は香々瀬から切り取った髪を差し出した。
「貸せ」
短く言うと、荒鹿火は部下に命じ、香々瀬の遺髪を持ってこさせた。
「……ふむ。確かに、独特の褐色をしておる。『葛城の大王』を名乗ったのが、葛城の首長だというのなら、これに間違いはあるまい」
遺髪をくまなく調べ、荒鹿火は苦々しく言った。
「臣のつとめは、『大和の大王』の血を引く御方にお仕えすることでございます。橘王亡き今となっては、「男大弩の大王」こそが、臣の仕えるべき唯一の主と心得ます。人主(きみ)には、これまで数々のご無礼あれど、伏して願い奉ります。叛臣・香々瀬の命と、この列城宮を献上するかわりに、我が罪をあがなうことをお赦しくださいませ……!」
金村は、地に額を擦りつけた。
「……今更になって、寝返るというのか。分が悪いと見るや、大方仲間割れでもしたのであろう。貴様らしいことだ」
金村の頭上に、侮蔑に満ちた荒鹿火の声が突き刺さる。
しかし金村は何も答えなかった。
何とでも言うがいい。確かに、奴らは勝利者だ。
自分は、時流を見誤った。敗れたのは、認めよう。
--しかし、まだ全てが終わった訳ではない。
香々瀬の髪を切り取り、警護の軍を解いて宮人を離散させ、列城宮に火をつけたのは、金村自身だ。
今頃、宮の中で、香々瀬の亡骸も燃えつきてしまっているだろう。
確かに自分は、男大弩の大王の敵対者だった。だが、ぎりぎりの所で叛逆の頭目を討ち、領地を献上したのだ。これまでの歴史を振り替えれば、それで赦された例もある。
分の悪い、賭けではあるが--。
「……大伴の」
深海が、金村に声をかけた。
金村は、縋るように深海を見上げる。
その時深海は腰の太刀を抜き、金村に向かって降り下げた。
「ひっ……!」
悲鳴を上げて金村は目を閉じた。やはり、自分は斬られるのか。そう、諦めたが--。
予想した痛みは感じなかった。かわりに、金村の角髪は半分切り落とされていた。
「--『葛城の大王』は、私がこの手で殺すはずだったのだよ」
深海は静かに言った。その表情には、深い憂愁が浮かんでいた。
作品名:「月傾く淡海」 第七章 倭文と香々瀬 作家名:さくら