「月傾く淡海」 第七章 倭文と香々瀬
「お前は、葛城の繁栄を夢想する心。--俺は、それを止め、現実の中で生き長らえさせていく理性。たとえどんな形になろうとも、葛城を滅ぼさせぬために……」
一言主は、自らに言い聞かせるように呟く。その姿は、彼にしては珍しくどこか寂しげだった。
「--ならば、どうするというのだ?」
「ここでお前を鎮めるのさ」
「……我を『鎮める』?」
祀厳津は、鼻先で嘲笑った。
「我と貴様は、同等の側面だ。一方が、他方を吸収など、できるはずもない……」
「--いや。それが、出来るんだ」
一言主は、確固とした口調で告げた。
彼はそれまで握り締めていた倭文の手首を突然放し、その肩を押して自分の前に突き出した。
「この子が、いるからね」
「その娘……?」
怪訝そうに眉根を顰め、祀厳津は倭文を一瞥する。
「これは、生粋の葛城の姫。お前が『依りまし』に使った者の、実の姉さ。……この子の名前を知っているかな。いずれお前が弟の方に名を与えると予見できてたから、その前に、俺が母親に託宣を下して名付けさせたんだけど」
倭文の肩に手を置き、一言主は得意そうに笑った。
「倭文、というんだよ」
「『シドリ』……?」
確認するように倭文の名を口にしながら、祀厳津は一瞬怯んだような表情を浮かべた。
「そう、『倭文』。相応しいだろう。これ以上の物は、ないよね」
「貴様は……分かっていて、その娘にその名を……」
「そうさ」
一言主の眼に脅すような光が輝いた。
「……ちょっと待ってよ、一言主。私の名前が、一体何だっていうの……?」
倭文は二人の緊迫したやりとりを息を詰めて見守っていたが、突如自分にその矛先が向いたため、困惑して傍らの一言主を見上げた。
倭文の名前は、一言主が。
香々瀬の名前は、祀厳津が。
それぞれが別に託宣を下して、姉弟の母に名付けさせたという。
そこにどんな意味があると……?。
「倭文は、『倭文』がなんだか知ってる?」
「……え? それは……織物のことでしょう? 麻なんかで編んだ……」
『倭文布』とは、穀(かじ)や麻などの植物を使い、複雑な文様を組み込みながら織り上げた、古来から伝わる豊葦原独特の織物のことを指す。
他の布などと比べても丈夫なので、よく帯や鞍などに使われていたし、歌に謡われることも多かった。
「あんまり風情のある名じゃないし……なんで織物の名前なんかつけられたんだろうって思ってたけど……」
「あのね。古来、織物っていうのは、繰り返し繰り返し紡ぎ出される命の糸--即ち、天空の秩序を制する、特別な霊力を意味したんだ」
「天空を制する霊力……?」
倭文は驚いて呟いた。
たかが織物なのに、随分と大げさな話になるものだ。
「『倭文』の役目は、離れ行くものを繋ぎ止めること。--つまり、『捕獲者』を意味する。それは、どんな武力でさえも、適わぬ力だ。……古の神話では、天津の猛々しい軍神でさえ捕えられなかった星を、『倭文』だけが絡めとることができたという。--故に、その異つ名は建葉槌(たけはづち)」
「……建葉槌……?」
「--そう。天に惑う『星』をからめとるもの。それが、建葉槌--即ち、『倭文神』。それは、あらゆる武力がついえた時に現れる、最後の解決者。……捕獲の力を持つ者さ」
自分の説明に満足したように、一言主は胸を張った。
「倭文は巫女じゃなかったけど、生まれながらにして、星を絡める網としての資格がある。--たとえ、その『星』が、自分の弟だとしてもね」
「ちょっと待ってよ! 絡めとるって、そんな……私はただ、香々瀬を……」
遮るように言いかけて、倭文は言葉に詰まった。
自分は香々瀬を--どうしたいのだろうか?
一言主に引っ張られるままに、ここまで来てしまったけれど。
眼前にいる、この香々瀬の姿を借りた祀厳津を……どうすれば、いいんだろう?
とりあえず、葛城王朝の復古とか、大王とか、身の丈に合わないことは即刻止めさせて。
それから--。
「私は香々瀬を……正気に戻して……館に連れ帰らないと……」
倭文は確認するように呟いた。
そうだ、まずは弟を元に戻して。
それから、もう一度、初めから教育しなおそう。
あだな望みを抱いたり、無闇に権勢に利用されたりしないように。まっとうな心をもった、普通の一人前の男に育ててやろう。
それが多分、姉として自分が背負った責任なんだ。
昔みたいに意地悪はしないけど。一応厳しく、少しは優しく。
もう一度、姉弟二人で……。
「……無理だね」
思いを巡らす倭文の横で、一言主はすげなく言った。
「--無理!?」
「祀厳津に憑かれた時点で、香々瀬としての命はない。もし祀厳津が香々瀬から離れたとしたら、香々瀬はすぐにでも死んでしまうさ」
「じゃあ、どうやって鎮めるって……」
「だから、依り憑き先ごと滅ぼすしかないんだ」
一言主は淡々と言う。しかし、倭文はそれを聞き逃すことは出来なかった。
「滅ぼすって……殺すってこと!?」
「そう。だって、どのみちそれしか方法がないんだから」
「香々瀬を殺すなんてこと、出来ないわ! あの子は、私のたった一人の同母の弟よ!?」
「大丈夫だよ。祀厳津ごと、俺の中に来るから」
「そんな簡単に言わないで! 私たちは、生きている人間なのよ!」
倭文は悲鳴のように叫んで頭を振った。
どんなに合わなくて、反目していたって。
相手が生きているからこそ、嫌うこともできる。
それなのに……!
その時、それまで黙っていた祀厳津が、突如頭をもたげ、倭文の顔を見つめた。
『……そうだよ。姉さま、僕を殺さないで』
祀厳津は、香々瀬の声音で倭文に懇願する。
倭文は弾かれたように、弟の姿を借りた者を見た。
その顔には、邪な笑みが張り付いていた。
その相貌は陰惨なのに、唇だけが笑いの形に歪んでいる。それは、例えようもないほど醜悪だった。
『姉さまは、僕を見捨てたりしないよね。そうだ、二人で、一緒に葛城王朝を創ろう? 姉さまも、女王になればいい』
祀厳津は、媚びるように畳み掛けた。
「……ねえ、倭文。倭文は、こんな気持ちの悪いものを、そのままにしておきたいの?」
祀厳津を見下げながら、一言主は辟易して言った。
「……」
倭文は答えることができない。
できるならばこのまま耳を塞ぎ、全てのことから目を背けてしまいたかった。
「俺は、やだな」
容赦なく言うと、一言主は手を伸ばし、倭文の首の動脈にその指を当てた。
「ちょっと、借りるよ。嫌だって言っても、借りるからね」
勝手に宣言すると、一言主は祀厳津に向かって長矛の切っ先を向けた。
「借りるって、何を……」
「--止めろ、一言主!!」
問いかけた倭文を遮るようにして、祀厳津が叫んだ。 素手のまま、祀厳津は何か反撃するような仕種をとる。しかし、一言主が鋭い眼目で彼を一瞥すると、術にかかったように祀厳津の動きは止まった。
「……ひ、ふ、み、よ、いつ、む、や、……」
「……やめてくれ、和魂……!」
祀厳津の喉奥から、追いつめられた懇願の響きが漏れる。
しかし一言主は聞き入れることもなく、彼が呪禁を唱えるたび、祀厳津の身体を細かい光の筋の様なものが絡めとっていった。
作品名:「月傾く淡海」 第七章 倭文と香々瀬 作家名:さくら