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「月傾く淡海」 第七章 倭文と香々瀬

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列城宮の前に立った一言主は、一切警戒しようともせず、そのまま平然と宮の中に入って行こうとした。
 しかし当然のことながら、一言主の前には警護の兵達が立ち塞がった。
 彼らは、金村の指示によって配された、大伴の兵である。今この列城宮を守っているのは、「葛城の大王」の恐怖専制によって行動を制限された、ごく僅かな者達だけになっていた。
「何者か! 男大弩王からの先触れか!?」
 太刀を構えた兵は、怯えた--というより、むしろ自棄になったように叫ぶ。
「いや。俺は、葛城の一言主」
「葛城……?」
 怪訝そうに反芻しかけた兵の前で、一言主は軽く長矛を振った。途端に、兵は目を閉じて倒れ伏す。
「……殺したの?」
 一言主に手首を握られた倭文は、眉根を寄せて咎めるように言った。
「ううん。気絶してもらっただけ。こいつら、いちいち煩いじゃない?」
 悪びれる様子もなく答えると、一言主は倭文の腕をひっぱり、そのままずんずんと宮の内に進入していった。
 途中、運悪く二人に遭遇してしまった舎人や采女は、一言主の奇怪な面相に驚いて声をあげる。一言主は、彼らを先程と同じ方法で次々と昏倒させながら、大王の間を目指して悠然と歩いていた。
「ねえ、もうちょっと穏便に……っていうか、隠密に侵入したほうがよかったんじゃ……」
「めんどくさいじゃん、そんなの」
 周囲を気にしながら注意した倭文に、一言主はすげなく返した。
 彼は、「いちいち騒ぐな!」などと言いながら、宮人をみな前後不覚にさせている。
 強引に引っ張られながら、倭文は舎人達を気の毒に思った。一言主は、見るからに異様な風貌をしているのだ。彼を見て、驚くなと言うほうが無理だった。
 しかも、そろそろ寝静まろうかという夜間の、突然の闖入者である。騒がれて当然だった。
「……ねえ、一言主。そろそろ腕離してよ。さっきから痛いんだけど」
「だめ。倭文、逃げるかも知れないから」
「逃げないわよ、ここまで来て……」
 早足で歩きながら、倭文は沈鬱な表情で呟いた。
 --先刻、一言主は倭文に謎かけを出した。
 葛城最後の大王・甕津の荒魂……祀厳津。祟る星神、香香背男。逍遥を繰り返したその呪いの星神が、再び依り憑いたという。
 その先は、どこだ?
 新たに依り憑かれたのは、誰だ?
 ……ああ、そうだ。考えるまでもない。
 甕津の無念を、今生ではらそうとする者。
 新たなる、葛城の王国を復古しようとする者。
 再び、葛城の大王を僭称した者--それは。
 --倭文の弟、香々瀬に他ならない。
(この宮の奥に、葛城大王を名乗る香々瀬がいる……)
 どうしても、会わなければならないと思った。
 会って、弟の目を覚まさせてやらなければならない。 もしも、まだ倭文の声が届くのならば……。
「--それにしても。若雀の大王がなくなってから、まだそれほど経ってないのに。この宮も随分荒れ果てた感じになっちゃったわね……」
 閑寂とした宮殿を渡りながら、倭文は呟いた。
 夜更けだから薄暗いのはともかくとして、人気も以前よりずっと少なくなっているし、何より宮全体にどことなく荒廃した気配が漂っている。
 在りし日の面影は、もうどこにもない。
(民に見捨てられた宮なんて、所詮こんなものか……)
 倭文がそう空しさを感じたとき、前を歩く一言主が鬱陶しそうに頭を振った。
「ああ、なんか、恨気が強いなあ……だから、こんなになっちゃうんだ」
「そういうものなの?」
「だって伝播するだろ、そういう気は。……まあ、だからわかるんだけど」
 言いながら、突如一言主は傍の壁を蹴破った。
 板戸は派手な音を立てて壊れ、崩れ落ちた後に、ぽっかりと穴が開く。
「……やっぱ当たり」
 中をのぞき込んで、一言主は満足そうに笑った。
 舞い上がる埃に咽ながら、倭文も暗闇の中を凝視する。
 紙燭に照らされた薄明りの中に、床几に座した一人の男の姿があった。
「--香々瀬!」
 倭文は思わず叫んだ。
 そこに一人で坐したのは、紛れもなく弟の香々瀬--の『形』をした者だった。
 急いで弟に話しかけようとした倭文は、中に入ってその姿を目の当りにした途端、思わず息を呑んだ。
 その香々瀬の顔をした男は、倭文のよく知っていた、愚かしくもあどけない少年ではない。
 気怠げに膝を立て、褐色の髪を解き下ろしたその男は、全身から凄艶な気配を漂わせていた。瞳には暗い獰猛な光が宿り、口元には酷薄な笑みを浮かべている。
 これは、香々瀬では--あの、幼い童男(おぐな)ではない。
 では、これが「葛城の大王」……かつて大王であり、そしてこれから大王になろうとする者なのか。
「……よう。やっと会えたな、祀厳津」
 緊迫した空気の中で、一言主は場違いに軽快な声をあげた。
「随分長い間離れ離れだったじゃないか。でも、やっと帰ってきたんだな。とうとう寂しくなったんだろ?」
「……黙れ、一言主」
 地の底から響くような声が、夜の大気を震わせた。
「--何をしにきた」
 香々瀬--いや祀厳津は、悽愴な瞳で一言主を見上げた。
「自分の半身に会いに来ちゃいけないのかい?」
「貴様と我は相容れぬ。だから、別れたのだ」
「相変わらず、冷たいよね。それに暗い」
 一言主は平然と言い切った。
「葛城の血族に憑いてくれたおかげで、見つけることができたよ。その身体は、居心地いいだろう。……でも、どうしたんだい。もう、祟って嫌がらせするのは飽きたの? ここにきて、方向転換ってわけ?」
「……」
 親しげに語りかける一言主を見上げながら、祀厳津は物憂げに額にかかった髪を払った。
「……ここは、我の宮。新たなる葛城王国の始まりとなる場所。--葛城の大王は蘇る」
「そう思ってるのは、祀厳津、お前だけさ」
 一言主はあっさりと、容赦なく告げた。その途端、祀厳津の瞳に剣呑な光が走る。
「お前も長生きしてるくせにさあ。時流ってものが読めないわけ? お前がどんなに一人でがんばっても、世の勢いは、もう男大弩の大王に傾いちゃったんだよ。これは、もう覆せない。こっちに、勝機はない。いいじゃないか。それだって、どのみちお前の望みだったんだろ?」
「我の真の望みは……」
「葛城は、もう勝てないよ」
 一言主は、達観したように言った。
「……だが、ここで引けば、葛城はまたもや反逆者として討たれるぞ。……それでよいとでも?」
「ねえ、祀厳津。俺だってさあ、そりゃ本当は、葛城王国が復活してくれたら、嬉しいと思うよ。だけど、駄目なんだ。それは、もう適わない夢なんだ。『宿業』を知らないわけじゃないだろ」
 一言主が『宿業』という言葉を口にした途端、祀厳津は弾かれたように敵意を剥き出し、激しい瞳で一言主を睨めつけた。
「貴様は……甕津の半身であったくせに……そのようなことを……」
 祀厳津は怒りに唇を震わせる。
「……あのさあ。これだけは、間違えないでね。俺は確かに甕津だったし、今でも変わらず葛城が好きだよ。だからこそ、自分のやらなきゃいけないことが分かってるんだ」
「貴様の役目?」