海処
「……ひま、だね」
「三崎行こうぜ」
適当な噂は、適当にあしらえば良いという結論が出て、事実を肯定した紫と違って、水橋の中で既に答えは決まっていたらしく、いつものように誘われる。三崎商店は帰り道の途中にある海が見える駄菓子屋で、何度も訪れたことがある。二人でも、一人でも、弟や妹を連れて行ったこともある。紫の祖母より十は年上だろう女性が、一人で営んでいる。家の奥からはここ数年テレビの音が聞こえるようになった。夏はもっぱら高校野球の声援とアナウンサーの声がしている。
「暑いよ、今日」
三崎商店に行く、と決める。それは水橋の部活がない日、二人で学校からある程度の距離を歩いて三崎商店に行く、ということになる。家の近くにバス停がある紫は、暑い日はバスで家の近くまででも良いから楽をしたい気持ちがある。三崎商店を通り過ぎるのはめんどうだし、水橋に余計な出費をさせるのも気が引けながら、口にしてしまう。そのくらい、暑いと感じていた。木陰で立ち止まりながら、汗と湿気でくっつくブラウスの袖を肘までまくる。
「自転車、つかう?」
誰の、と聞くより早く目にとまった木陰に置いてある自転車に紫は顔をしかめた。この自転車は、数か月前の雨の日からこうして木陰に放置されていた。誰のかもわからず、もしかすると盗難自転車かもしれず。壊れて動かないのなら意味がない、と言わんばかりの顔をして黙る。そんな紫を見て沈黙を肯定ととったのか、学生鞄を道路に置いて水橋が自転車に手をかけた。
「え、乗るなんて言ってないから!」
「心配いらないって、チェーンが落ちてるだけだ」
「いや、きたないでしょ」
「わかってる、三崎で手洗うから」
何を言っても無駄か、と諦めた紫の視線の先で水橋は楽しそうに自転車を見つめている。ギアの部分をいじったかと思うと、そこから先は流れるように作業が進んでいった。チェーンがあっさりと緩み、歯車のような部品へとゆっくり絡められていく。ペダルを逆方向にまわすのを数回やって、立ち上がった水橋の横顔がひどく満足そうで、思わず気が抜ける。
「終わったの?」
問いかけに頷いて、水橋が跨る。跨って黙っている後ろ姿はひどく滑稽で、つい笑いそうになりながら数秒間お互い何を言うわけでもなく沈黙を守った。
「乗って?」
「自転車の二人乗りって、罰金あるでしょ」
空気を読めてない、というのはまさしく自分のようなことを言うと確信しながら紫は首を横に振った。
「……ロマンもへったくれもないな」
「危ないから、引っ張って帰りにでも乗ったら?」
残念そうなのは呟かれた言葉だけで、断られることをわかっていたのか、水橋はあっさり自転車から降りる。苦笑いしながら紫が「暑いから、早く行こう」と言うと「俺が自転車押してくのに」と文句を言いながらも、水橋は笑った。
三崎商店の店先からは、海がよく見えている。晴れの日に潮風に吹きつけられながら、日陰にある木のベンチでラムネやアイスを堪能する。それを水橋と二人でし始めたのは、中一の夏からだった。
(あの年も、暑かったなぁ)
今年のように太陽が痛いほど照るわけではなく、湿気にやられた数年前の夏を思い出しながら、店先から見える海を紫は見つめた。その後ろで、店主の女性に水橋が声をかける。
「おばさん、お勘定お願いします」
耳が遠いのを知っている水橋は、ゆっくりとした普段より少し大きい声を出す。それに気づいたのか、水橋の手に持っている棒アイスとラムネの瓶を見た。
「270円ね」
買いなれた棒アイス一本と瓶ラムネ二本の値段をおぼえている水橋が、手に小銭をそっと渡す。確認をするわけでもなく、小銭入れへとぴったりの金額がしまわれた。その間も、紫は海を見ていた。
「はい、お待ちどう」
「ありがと」
瓶を受け取って、指と掌の隙間に代金の半分を押しこむ。(そういえば、水橋手洗ったんだっけ)
少しだけ気になった。ただそれも忘れて瓶の冷たさが、心地よい。そっと頬にあてて、目をつぶる。頬から伝わってくる冷たさと波の音。隣でラムネを飲む水橋の喉が鳴らす音が聞こえてくる。
目をあけて、眩しさに少しだけ目を細めながら、ラムネを開ける。爽快な音をたてて、掌にじんわりと伝わる炭酸のせり上がってくる感覚が紫は好きだった。
「そういえば、部活どう?」
飲み終わった瓶をお互いの間に置いて、いい具合に溶けた棒アイスを二つに折る水橋に問いかける。大会はずっと先なようであって、三年生ともなると事情が違ってくる。ましてや部長がこんなところで部活がない日だとしてものんびりしていて良いのか、紫にはわからなかった。
「とりあえず軽くする作業かな、今のところは。同じように動ける部品で軽いのをどうにか見つけるとか、いろいろあるけど」
「部活、今日はなかったんだ」
「毎日はないよ。俺、ロボットや部活のメンツとだけ顔合わせることはしないようにしてるし」
(そんなものなのかな)
聞いた身でありながら、「そっか」という返事しかできなくなって、紫は水平線の向こうを見つめた。息抜きの時間を、こんな風に消費して良いの、と聞きたくなる気持ちもあった。それをどうにか押しとどめる。
空になったプラスチックを噛んだまま、動かす水橋に行儀が悪いよ、とも言わずに紫は海を見ていた。水橋も、紫が足を投げ出して座っているのを知りながら、同じように海を見つめた。
「海、行きたいな」
「行くよりか、見てる方が楽しいだろ」
そうかな、と呟く声をひろって、そうだって、と返す。紫は数秒黙ってから、そうかもね、と答えた。
「ここら辺、綺麗な浜辺もないものね」
「その点、眺めも店もいい感じで、涼める三崎の方が俺はずっと好きだな」
今日は自転車押したせいで余計に暑かったし、と歯を見せて笑う水橋に「自業自得でしょ」と紫は答えながら笑った。
「水橋と、汐見?」
「よぉ、偶然」とかけられた声に、水橋は軽く手をあげたが、紫は振り向きもしなかった。どうしてここにいるんだろうと、強く思いながら投げ出していた足を戻す。
(べたつくから、くっつけたくないのに)
少し不快な気分で、声の主の方をなんでもないように見る。気にするだけ、気が重くなるのが嫌だった。自分たちを呼んだ同級生の大友は、一人でいた。高い位置から本人がそのつもりはなくても見下ろされるその感覚が、紫は苦手で部活ではいつもそれとなく避けていた相手だった。パートが一緒なわけでもない、ましてや同じ性別でもなくても、こうしているところを見られるのは怖かった。
「大友、一人か」
「そう、おれ大抵の登下校ひとりだけどね」
彼女もいないし、とはにかむ空気を左から感じながら、ラムネの瓶を二本とも握って、商店の中へ紫は姿を消した。
(むり、怖い)
冷えたような感覚に体を震わせながら瓶を置いて、声をかけようとおばさんの姿を探しても、なぜか見当たらなかった。そして、紫はそのまま店の中でぼんやりと立ち尽くしながらどうやって戻るかということと、どんな顔をするかを考えた。
「……ジャマした?」