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文殊(もんじゅ)
文殊(もんじゅ)
novelistID. 635
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海処

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 講習には高校三年の夏休みとは思えないほど、人がいなかった。蝉の鳴く声が響く教室。やる気が出ないとひそかにぼやいた先生は、プリントでどうにか涼しさを得ようとしている。自分と他数人がプリントの上にシャーペンを走らせて書く年号。記憶が曖昧で自信のなさが明らかな数字の積み重ねを書く音よりもずっと強くて爽快な、野球部のボールが打たれた響き。サッカー部の監督の怒鳴る声。吹奏楽部が窓を開けて響き渡らせる、テンポのあわないマーチ。教室のドアを全開にしても、まったく吹く気配のない風。痛いほど射してくる、太陽の光。すべてが夏を、暑さを助長するものとなっている。そしてなにより、疲労感を増す原因になっていた。
「そのプリント終わらせたら、今日は終わるか……」
 呟いた先生の方を一瞬見て、視線が合わさる。それを紫は少しも恥とは思わないようにした。先生は特に何も言わず、同意が得られたわけでもないのに「そうするか」と決めた。その横顔が誰より晴れ晴れとしていて、笑いそうになるのを、どうにか堪えた。
来なかった生徒のおかげで、早く終わった解放感を味わいながら廊下を歩く。日本史は好きだけれども、年号が頭に入らないから困る。紫は数字が苦手だ。だから数学ができない、と思って常々授業を受けていた。それは去年までの話であって、今はこうして英語を除けば好きな教科だけ勉強していられる。とにかく、好きな日本史のプリントは余った数枚を貰うことができた。やるかどうかは定かでないけれども、きっと後で役に立つ。そんな適当な考えでもって、家まで帰ろうと階段を降りていった。
ある程度清潔感のある校舎に、ほどほどの学力とそれなりに部活を楽しめる環境があれば、学校はそれで良いと紫は思う。同級生も当然入学した市内一の進学校は、宿題が山のように出るらしい。確かなことは入学するだろう弟の入学後に聞けばわかる。あえて聞くつもりはなくても、話題にあがらないことはないと思う。
紫は人よりできない自覚を持ち歩いて勉強に追われ、教師に呆れられた顔をされるのが嫌だった。それだけだ。制服のデザインがかわいいわけでもない。むしろ、中学校とほとんどかわらないデザインだ。その上スカートがチェックなわけでもなく、リボンやネクタイがついているわけでもない。セーラーならまだしもブレザーの制服は、寸胴さを引き立てるだけで、特にメリットはなかった。
そして、ひたすらにやりたい部活があったわけでもない。吹奏楽部だった今年の春までを、思い出しながら足を進める。その途中で、耳慣れた数人の声が聞こえて紫は廊下を進んだ先にあるもう一つの階段から帰ろうと歩みを速めた。ひたむきなみんなが眩しかった。

先生は、優しかった。選択教科で美術をとっていた紫には、部活でしか関わりがなかったけれども、部活は春までの生活で睡眠と同じくらいやってきた。言い過ぎだと思われるかもしれなくても、一日五時間も寝ていれば良い方の紫にとっては、むしろ部活の時間の方が長かった。それだけの時間を過ごして、突然辞めると口にした紫を、とがめなかった。
「どうして辞めたいと、思ったの?」
「勉強と、両立できませんでした。でも、それは部活のせいじゃないんです」
震える声で口にした。付け加えるように「私が、悪いんです」と口にした後から、喉が乾燥してひどく痛んだ。
(水がほしい)
そう思いながら、スカートの上で手を強く握る。先生が「わかっているなら、続けられないの」と静かに問いかけた。穏やかな声で叱り、それにいつも怯えていた頃を思い出しながら、ゆっくりテーブルに視線を落とした。嘘をついている。その意識はありながら、紫は心の中で一言も学校生活に口を出したことがない父に謝り続けながら、理由を乾いた喉から絞り出した。
それ以上の追及はされないまま、数分後に紫は音楽室をぼんやりとした表情と足取りで出た。母は、本当の理由を知っている。それを言うと母に嘘をついて、家を出た。先生には嘘の理由を口にした。嘘の理由には父を使った。昔見たアニメの女の子が、自分と同じように嘘の連鎖にはまっていたのを思い出す。
(それでも、もう、もう私は辞めたんだ)
 退部届も出した。先生はそれを受け取った。きっと担任には提出されないだろうことをわかっているけれども、紫は関係ないと強く思っていた。
 辞めたという解放感で、学校から家までの道のりを歩く。爽やかな気持ちでいるはずだと言い聞かせていたはずの紫の目から、涙が出る。
我慢し続けた手首の痛みを医者にみせて、腱鞘炎のくせがついているから、と言われた。
「あ、あの。ドラムとかも、原因になるんですか」
「そうだね。……やらないようにね」
それは、部活をやらないようにと言われるのと一緒だった。手首が使い物にならないなら、ドラムも鍵盤楽器も何もたたくことができない。今から吹く楽器になんて、絶対に無理だと思った。帰り道でも、家に帰って状況を口にしても、涙は出なかった。ただテレビを見ながら「終わりって、急だ」と呟いて、弟に微妙な表情をさせたことは反省している。
(ぜんぶ、終わったんだ)
薄暗い帰り道でせわしなく通り過ぎる車の誰もが、見ていなかった。見ているはずがない。ただ女子高生が少しだけ俯いて歩いているくらいにしか、見えていない。悔しさと嬉しさと不甲斐なさと寂しさが一緒になってわけのわからない感情が渦巻く。それをぶちまけないよう、必死なことなんて、他人に知られない方が紫にとっても良かった。
(勉強、しなきゃ)
 しゃくり上げるのを我慢して、咳きこみながら紫はぼんやりと同じ言葉を頭の中で繰り返した。春、とにかく紫はぼんやりとしてそれでいておそろしいほど明確な思い出を胸に、今までテストの数日前にしか思わなかったことを決意していた。

(あの決意は、どこに行ったのやら)
 玄関を出て坂を下りながら、春のことを思い出して紫は馬鹿らしいと思っていた。結局勉強が格別好きでもない自分は、入れそうな大学をターゲットにして適度に好きな教科の勉強をしている。
「おい、汐見」
 振り返ることを躊躇するのは一瞬で、特に笑顔になるわけでもなく声のする方を向く。人に後ろを歩かれるのが苦手な紫の耳が拾っていた靴音の正体が、そこに立っていた。
「水橋」
「ヒマ?」
 水橋涼と紫は、中学校からの付き合いだ。同級生の時もそうでない時も、お互い適度に同級生を続けてきた。夏休み前に青春の一部とも言える部活動を終えた他の同級生と、水橋は違った。たった五人の科学部で、部長を今もしている。北海道大会は九月だからまだ部長だと、紫に言ったことがあった。背も高い、運動も勉強も適度にできる。「科学部なのが残念だよね」なんて言われているのを、自覚している。それで辞めるくらいなら、入部するわけもない。水橋は部員もしつこいと思うほど動作テストをするのが好きな、ロボット相撲大会入賞の立役者だった。
問いかけに素直に頷きかけて、頭の中で紫は先の展開を予測する。お互い特に何の下心があるわけでもない。それでも、噂がないと生きていけない類の人間は「また水橋と汐見がよりを戻した」と芸能人の熱愛をすっぱ抜いたくらい嬉しそうに口にする。そういうのに興味がない人間の組み合わせによくそんな興奮できるな、と思う。
作品名:海処 作家名:文殊(もんじゅ)