ファントム・ローズ
ワールド「Cace5 嘘」
まったく覚えてなかったというもある。
けど、それ以上に、まさかここでその名前に出会うなんて思ってもみなかった。
鳴海愛と同じ幼稚園だったってだけで驚いたのに……でも、よくよく考えると鳴海愛と幼なじみだって言ってたじゃないか。
壁に掘られているつたない文字――なぎち。
おそらく『ち』は『さ』の間違いだろう。
その横には僕の名前があった。
でも、これは少し記憶と違う。
僕の名前は僕が彫ったものに違いないだろう。
「僕の記憶じゃ、たしかアスカに一生ともだちでいようっておまじないって言われて掘らされた気がする」
過去の記憶では僕の名前の横にはアスカの名前が彫られていた。当時の僕はそれが相合い傘だったなんて知らなかったし、掘ったことすら今の今まで忘れていた。
でも、なんでアスカの名前が渚に変わってるんだ?
世界が改変されているのか、僕の記憶が可笑しいのか、考えると頭が痛くなる。
僕はしゃがみ込んでそのラクガキをよく見た。
なるほど、ここにアスカの名前があったのは、きっと正しい。壁に削られた痕があって、その上に『なぎち』の名前がある。上書きされたんだ。
「こんな昔から渚も……鳴海も僕のことを知ってたってことだよね?」
「そうなるな」
言い方が人ごとっぽい。
ひとつ、まさかなと思うことがある。
「もしかしてさ、小学校とか中学も同じだったってことないよね?」
「同じ学区内だったのだから、当然だな」
「ウソだろ。ってことはさ、同じクラスになったのは、高校2年だけだよね?」
静かに鳴海愛は首を横に振った。
忘れたというのが正しいのか、記憶にないというのが正しいのか、鳴海愛という存在は影ではあるけれど、その影は異質で目立つ影だ。まったく記憶にないなんて絶対に可笑しい。
「僕は鳴海のことをまったく覚えてない。それどころか渚のこともね。渚は学年も違うからそうかもしれないけど、同じクラスになったことあるんなら、少しくらい鳴海のこと覚えててもいいだろう? それがもしかして鳴海が世界から?弾かれた?影響?」
鳴海愛という存在が?弾かれた?ことによって起きた世界の改変。その影響を僕も受けてるってことなんだろうか?
「それもあるかもしれないが」
と鳴海は僕から視線を逸らして話を続ける。
「君はひどく心を閉ざした少年だった。椎名アスカ以外の前ではね。とくに……」
言葉を詰まらせたように感じた。
突然口を閉ざした鳴海愛。
その先はいったいなにを言おうとしたんだろう?
「とくに?」
「歳を負うごとに酷くなっていった」
よく思い出せないけど、家庭環境のせいかもしれない。義父の歪んだ顔が脳裏にちらつく。
僕はひざを伸して立ち上がった。そのときに見えた向かいのマンション。
「アスカのマンションだ」
あの9階にアスカは住んでいた。そして、抜け殻が飛び下りた。
嫌な記憶だ。あれがたとえ入れ物だけだったとしても、本当に思いだしたくもない。
――ッ!?
可笑しい。なにかが可笑しい。急に心に引っかかりを覚えた僕は鳴海愛を見つめていた。
「僕といっしょにアスカの家に行ったよね?」
「ああ」
「そこでアスカが窓から……」
「そうだ」
僕と同じ記憶を持っているらしい。
だとしたら……。
「アスカの家ってどこにあるか知ってる?」
「…………」
黙った。鳴海愛が黙るパターンだ。明らかになにかあるときの反応だ。
今僕らがしている会話は明らかに可笑しい。僕はあのマンションを見上げながら、アスカのマンソンだと言い、僕と鳴海愛でアスカのマンションに訪ねた話もしている。でも、僕はあえて尋ねたんだ、その不可解な質問を。そして、鳴海愛は黙り込んだ。
なんだか背筋がゾッとした。
この箱は開けていいのだろうか?
なんだかわからないけど、怖ろしい気がする。
頭の中でもやもやしているものの正体だ。
「幼稚園のとき、僕がよく遊んでた女の子ってアスカなんだよね?」
「そうだ」
「ならさ、その子の家って……どこ?」
僕の記憶が正しければ。
もうひとつ、鳴海愛にも確かめて聞きたいことがある。
「僕が仲良くしてた女の子だと思うんだけど、引っ越した子がいると思うんだけど、だれかわかる?」
「記憶にないな」
「たとえば、こうなら辻褄が合うんだけど、アスカって僕んちの隣から、そこのマンションに引っ越した?」
「…………」
黙った。その沈黙が酷く怖ろしい。鳴海愛はなにを知っていて、どうして黙るんだろうか?
僕もなにをいっていいのかわからず口を閉ざす。
僕らの間に流れる沈黙の風。
僕や鳴海愛と同じ幼稚園に通っていた椎名アスカ。
クラブ・ダブルBの事件に巻き込まれ、抜け殻があのマンションから飛び降りてしまった椎名アスカ。
アスカの家は二つある。
どうやら、そこがなにか可笑しいらしい。
そして、鳴海愛が重たそうな唇を静かに開いた。
「君の世界は、私が知っている世界から見て異様だった」
「……なにが?」
つばを呑み込んでから尋ねた。
「私は?弾かれた?ことで、世界がひとりひとりに個々に与えられているもので、それらの世界は人それぞれに異なっていることを知った。だが、異なるといっても互いの世界が干渉いないわけではない。すべての世界はリンクしつつも、独自の世界を築き上げているんだ」
「だからつまりなにが言いたい?」
「世界のリンクは相互リンクで成り立っている。君の世界はそれがとても希薄で、ある種の世界全体での共通認識を拒んでいた」
「だから、なに?」
だんだんと僕は自分が苛立っているのがわかった。
「これを私の口から話していいのかわからない。おそらくそれは君の望まないことだ」
「それを聞く覚悟が僕にあるかって言いたげだね。でも、聞かなきゃ判断できないよ。なんだかわからないけど、頭がもやもやするんだ。この原因がそこにあるんだろう?」
「聞きたいか?」
ゾッとするような寒々しい口ぶりだった。
どんな言葉が待ち受けているか、それはまったく想像もできなかったけど、僕はこのイライラする感情が爆発しそうで、それをぶつけてしまった。
「聞きたいね、もったいぶらずに早く言えよ!」
鳴海愛はもったいぶるような言い方をよくする。でも今はどうしてこんなにも苛立ちを覚えるんだろう。きっと……僕は何かを本能的に怖れているんだ。でも、もう後戻りはできない。
鳴海愛は静かに言い放つ。
「椎名アスカが存在していたのは君の世界だけだ」
「……んっ!?」
なにを言ってるんだ?
わけがわからない。
「アスカが存在してたのは僕の世界だけ? 鳴海も同じ幼稚園だったんだから、ずっとアスカといっしょだろ? 僕と鳴海では世界は違えど、同じ椎名アスカって記憶を共有して、おそらくその辺りは相互リンクが成り立ってたってことだろ?」
「たしかに、幼いころの椎名アスカは私も知っている」
なぜか僕は背筋が冷たくなってひざが震えて立てなくなった。
鳴海愛は僕に止めを刺す。
「私は高校生になった椎名アスカを君の世界ではじめて見た」
「ああああああああああっ!」
僕は叫んだ。わけもわからず叫んだ。
鳴海愛はいったいなにを言ってるんだ?
作品名:ファントム・ローズ 作家名:秋月あきら(秋月瑛)