ファントム・ローズ
ワールド「Cace4 追憶」
僕の名前は春日涼。
酒に酔った義父が僕を殴りながらよく言っていた。
「その涼しげな顔が気に食わねぇんだよ、まるで兄貴そっくりだ。あいつはいつも俺のことを見下してた」
酔いつぶれて義父が寝静まったあと、義母は僕の傷を愛でながらよく言っていた。
「お酒さえ飲まなければ本当に優しいひとなのよ」
そうやっていつも泣いていた。
よくある話だ。そんな家庭で僕は育った。
本当の両親のことはあまり覚えていないのは、きっと幼かったせいだろう。
微かに覚えている記憶は、天井からぶら下がってゆらゆら揺れている2つの影。
昔から友達をつくるのが苦手だったけど、いつも遊んでいた幼なじみの女の子がいた。名前はアスカちゃん。でも、小学生低学年のとき、突然引っ越しちゃって……。
「本当に引っ越したのかな?」
闇の中に響き渡る声。
――まだ僕は闇の中にいた。
声はどこから聞こえるのだろうか?
「ここだよ、こっち」
声の主が僕をいざなう。
「出口はここだよ。はじめから手を伸せば届く距離にある」
言われるままに僕は手を伸した。
弾力性のある液体に手を突っ込んだようなヌプッとした感触。
手首から先に空気感が伝わってきた。闇の中で消えていた触感だ。僕には手があるという実感がした。
けれど、急に恐怖感に苛まれて手を引いた。
どこからか笑い声が聞こえる。
「やっぱりダメか。まだ現実を受け入れる気が無いんだね。なら、ずっとそこで引きこもってればいい」
現実?
僕の名前は春日涼。僕が生まれた夏の日がやけに寒かったからそんな名前が付いたと聞かされている。
僕は私立六道学園高等部に通う二年生で、クラスでは平凡に過ごしてきたと思う。髪は染めてないから黒で、身長は一七四センチ、自分ではどこにでもいるような男だと思っているけど、人から見たら僕はどう映るんだろう?
そんな僕にも彼女がいる。同じクラスの椎名アスカ。付き合いだしたのが中三の二学期だったから、付き合って二年になる。
「あーあ、またそうやって物語を創り出す」
声の主は呆れているようだった。
「さっき真実を語ろうとしていただろう」
真実?
「そうさ、キミが認めたくなくても真実が現実。キミがいくら偽ろうと、ボクは真実を知っている。現実を見たくなったら、ちょっと足を踏み出すだけでいい。出口はいつもキミの目の前にある。じゃあね、バイバイ」
「待て!」
僕の叫び声が僕の聴覚を刺激した。
一気に世界が開けた。
「ここは……?」
どこだろうか?
もう僕は闇の中にはいなかった。けど、だいぶ薄暗い場所だ。
僕の目の前には光を反射する物体。それは大きな鏡だった。僕の全身を映し出す鏡。けれど、そこに映っていたのは黒い人影だ。
(やあ、やっと現実世界に戻ってきたね)
おどけたような口ぶりで鏡の中の影は僕に語りかけてきた。
「君はだれ?」
(そうか、名前は重要だ。そうだね、たとえばファントム・ナイトなんていうのはどうかな。キミに寄り添うにはぴったりの名前だ)
また……ファントムか。
「なにが目的?」
こいつは僕を闇の世界から救い出した。救ったって表現が正しいかはさておき。
(真実の導き手と言ったところかな)
「…………」
(だれだって真実を認めるのは苦手さ。多かれ少なかれ、ひとは自分の世界を創造して自分の身を守るものだけれど、キミはそれが誇大過ぎるんだよ)
「それは僕がウソでもついてるって言いたいの?」
(わかってるじゃないか自分で。キミはあの闇の世界でなにをしてた?)
闇の中で僕にできたことは思考することだ。
何度も何度も記憶を反復していた。自分自身の存在を忘れないように。
(そうだよ、それだよ。何度も反復していくうちに事実を歪めていったんだ)
「もういい、やめろ!」
激しい音とともに鏡が砕け散った。
ひどく拳が痛い。見ると血が出ていた。僕が殴って割ったらしい。
(そんなことしたって無駄だよ。今のキミに必要なことは、妄想と現実を区別することだ)
割れた鏡のひとつひとつの破片に映る人影。
「うるさい!」
僕は駆け出した。
ここがどこなのかもわからない。
行き先なんてあるわけない。
ただ走ってその場から逃げた。
そして、ここがどこなのか気づく。
僕の通う学校だ。
廊下の窓から見える暗い空。
校内から出ると、吹く風が体を冷やした。時間はわからないけど、町はとても静かで夜更けを感じさせた。
街灯が寂しげに照らす住宅街を歩き、僕は帰るべき場所を探した。
自然と足が僕を運んだのは見覚えのある一軒家だ。この家で僕は育った。
そして、ふと思い出す。
義父が死んだのはちょうど1年前。肝臓がんだった。義母は今も立ち直っていない。僕のことなんてまるで見えてないようだ。
この家は僕の帰る場所じゃない。
僕は隣の家の前を通り過ぎようとして、ふと思い出して足を止めた。
今は違う家が建ってるけど、ここに幼なじみの女の子が……。
急に頭が真っ白になって立ち眩みがした。
だめだ。
激しい吐き気までしてきて、僕は冷たいアスファルトに手をついてうずくまった。
……幼なじみの女の子?
名前は?
……名前は?
うう……ひどい頭痛だ。
あの子の名前は……アスカちゃん。
僕の彼女の名前は……椎名アスカ?
いつの間にか引っ越してしまった幼なじみの女の子。
その子の名字は……たしか椎名だった。
僕が付き合っていたのは……いったいだれなんだ?
椎凪渚?
違う、それは修正された世界でのことだ。
(果たしてそれが事実かな?)
またあの声だ。
僕はあたりを探した。どこだ、どこにいる!
ハッとして顔を上げると、カーブミラーに人影が映っていた。
(キミはもう少し椎名アスカについて情報を整理するべきだ。そして、妄想と現実を区別しなきゃいけない)
椎名アスカは僕の幼なじみだ。ちゃんと付き合いだしたのは中3の2学期だから、恋人って言える関係は2年くらいになる。
(気づかないフリはやめろよ)
「うるさい黙れ」
(代わりにボクは言ってやろうか?)
「うるさいうるさいうるさい!」
近くにあった小石を拾い上げ、カーブミラーに投げつけた。コツンと音を立て金属板に跳ね返された。ガラス製の鏡じゃないから割れないことは知っている。けれどあいつが憎くて堪らない。
僕は再び小石を拾い上げカーブミラーに投げつけた。
何度も何度も跳ね返され、そのたびに投げ返した。
そして、小石は僕の目の上のあたりに跳ね返ってきた。
「いっ……つ……」
切れたかもしれない。
目の上の傷を手で覆いながらカーブミラーを見上げる。
そこに映っていたのは僕の姿だ。血走った眼で顔はやつれてしまっている。
……僕はなにをやってるんだろう?
疲れが一気に体を重くして、ひざから崩れるようにして僕は地面に座りこんだ。
目をつぶる。
妄想と現実を区別しろか。
その線引きはとても難しい。主観的に考えれば、すべてが僕の感じた現実での出来事だ。
作品名:ファントム・ローズ 作家名:秋月あきら(秋月瑛)