愛が望む遠い約束
というような具合に。
***
図書館での勉強会が終わって、私は拓真君と駅まで一緒に帰った。
「それでさ、集合写真を撮るためにカメラをスタンバイさせたまではいいんだけど、急いでみんなの中に混ざろうとしたときに足を三脚にぶつけちゃって、三脚ごとカメラが明後日の方向向いて撮影失敗。専門の女性カメラマンから眩しいくらいの笑顔で『私がお撮りしましょうか』って言われてさ。結婚式でお約束をするはめになったんだ。恥ずかしかったなぁ。みんなドッと笑ってさ。
それに他にもあるぜ。二次会のカラオケで、カンの『愛は勝つ』ってあるだろ、あれ歌ったらさ、思いっきり音外れて調子がロックみたいになっちまったんだ。こんな感じ……。
従兄弟が『愛は勝つ』をロックで歌えるのお前だけだって言って、褒められたんだか何だかなぁ。
『視える。聖飢魔Ⅱのジャックザリッパーが視える。人間のレベルをはるかに超えた歌い方だったよ。魔界の王になれるんじゃないかってくらい』だってさ」
拓真君は以外に面白い人だった。クールな人かなとも思っていたけれど、冗談や笑える嘘で会話に華を咲かせていた。飽きることがない。
でも……。
「拓真君。ホントに必死にならないと、第一志望校確実に無理だね」
英語の単語・熟語テストはあまりよくなかった。半分しか正解していない。
「一年と二年のとき、サッカーのことしか頭になかったから……そのツケがまわってきた」と、大きく溜め息をついて言うその姿は、とても情けないものだった。
私は思いきって「ホントにサッカーだけ?」と訊く。一つの不安を取り除きたくて。
「本当だって」
「同じ学校の女子は? 追いかけてなかった?」
私の指摘に拓真君はばつ悪そうな顔をした。眉が歪み、視線は宙をさまよう。
「分かりました。もういい。私が君の家庭教師を務めます」
拓真君は私が何を言っているのか聞きとれていないか、あるいは意味を呑みこめていないのか、目を丸くして私を見る。
「どうしたの?」
「……え、あ、いや。女子を部屋に入れるのは小学生のとき以来だなって」
「家じゃなくて図書館よ」
全く。話が飛躍しすぎ。
「そ、そうか。じゃあさ、僕の得意分野を清美には教えるよ」
ムッとした。
「私。全国模試、二年連続一位ですから」
同い年に教わることなど、勉強に限って何もない。
拓真君は悔しそうにがっかりしていた。
「清美。あの子、どうしたんだろう」
拓真君の言葉で私は思考の海から現実に引き戻された。
「え、何?」
「あの子」
拓真君が指をさした方向には、小さな子供が泣いていた。
「ちょっと行ってくる」
「私も」
拓真君が子供に近づいて「どうしたの? お母さんかお父さんは?」と声をかける。
子供は何の反応も示さない。泣いているのに泣き声もなかった。
拓真君は少し困ったような顔を浮かべた。
「この近くに交番ってあったっけ?」
「うん、あるよ。こっち」
子供は意外にも私達を警戒せず、黙ってついてきた。
そして交番に到着しても子供は何も話さないので、拓真君と私で状況を説明した。
交番の人は子供に「携帯電話はある?」と訊くが、それにも答えない。
「あのね、ボク。お父さんかお母さんに連絡して来てもらわないと。携帯電話は持ってないの?」
子供はリュックの中からペンケースとメモ帳を取り出して何かを書き始めた。
『耳は聴こえない。声も出せない』
身体障害者だった。
交番の人は『携帯電話はある?』と、自分のメモ帳で訊くも、子供は持っていないと答えた。そして『おじいちゃんとはぐれた』と追記した。
見ためは小学二年生くらい。今どきその年でも携帯持っていると今まで思っていたが、珍しいこともあるものだ。
「清美。先に帰ってて。僕、さっきの場所に行ってみる」
「え、私も一緒に……」
「僕一人で大丈夫。清美は、もうこれ以上暗くならないうちに帰ったほうがいいよ。女の子の帰りの夜道は危険だから。この子が両親と合流できたらメールする」
拓真君は携帯を取り出して赤外通信の準備を始めた。
今日はお父さんの帰りが早い。遅い時間まで同い年の男の子と一緒にいると知ったらどうなることか。たぶんまた門限を決められて軟禁状態にされる。すると拓真君にも会えない。こんなに優しい男の子と会える時間がなくなるのは嫌だ。
「うん、分かった。絶対メールちょうだいね」
「ああ」
男の子と携帯のやりとりをするのは、私にとってこれが初めてだった。
結局、子供の保護者――両親ではなく母方の祖父母――が交番に来たのは夜九時ごろだった。
拓真君はそれまで子供がいた場所で、交番の人と定期的に連絡するかたちでずっと保護者を待っていた。
損な性格しているけれど、それでも困っている人に優しくできる拓真君が、私は好きだったのだ。
***
日曜日に俺達は予備校がシャッターを開けるまで、予備校玄関前の階段に座り込んでいた。自習室を利用するためだ。
「お前、上村のことはどうするんだよ?」
「やっぱり上村も捨てがたい……ってぇ! なんで殴るんだよ!」
「千石との付き合い、本気じゃないのかよ」
イライラしたので頭を殴ってやった。うっとうしくらいの日差しへの怒りも込めて。
「だってさ。僕は今まで優衣さんと上村しか女子とは話したことがないんだ。目移りしちまうんだよ。
いいよな、お前は。何かのイベント時には必ず告白されてさ。
だいたい、上村だって僕のこと好きなのかもしれないし。どうやって友達の関係で終わらせればいいのか、分からねぇよ」
だからって、どっちつかずかの関係はまずい。上村と千石が傷つくし、あるいは両方一緒になって傷つくかもしれない。俺だって一発殴るだけですむかどうか……。
「拓真君!」
その時千石が控えめに手を振りながら走ってきた。
「おはよう」
「ああ、おはよ」
千石は俺の方を見る。
「友達の飯嶋真司だよ」
拓真が俺のことを軽く紹介した。
「初めまして。私、千石清美です」
自己紹介するときの千石の笑顔は可愛かった。
夏の日差しに照らされる白い歯に、甘い香りを漂わせて相手の耳へ入っていくシルクのような声。凛とした歩き方と姿勢が美しい。
確かに多くの男から言い寄られるはずだ。
でも、俺にはどうでもいいことだった。千石を前にしても上村のことの方が気になるのだから。
***
その日の午前は自習室で得意科目の勉強をし、午後からは図書館で苦手な数学を清美に教えてもらった。
昼食は真司も一緒だったが、一人自習室に残った。
「ねぇ、明日はどうするの?」と、清美は学生鞄の中にノートなどをしまいながら訊いてきた。
明日は月曜日。サッカー部を引退してから二回目の放課後になる。そして同時に、受験戦争で勝ち残るための二回目の放課後にもなる。
「まずは、そうだな。学校が終わったら自習室に直行して英語の講義の予習する」
「拓真君。明日は英語なんだ?」
「ああ、秋までに苦手科目を克服したくてさ。清美はどうするの?」
「明日は講義ないけど、数学の復習をしようかなって」
「じゃあ、また自習室な」
「うん。あ、そうそう。また私の背中を見つめるの?」