茅山道士 白い犬1
それからすぐに、「あの方はひとめで我々の正体を暴きなすったのに、あんた方はまだまだ修行が足らん。」 と、頭を振り振り姿を消した。
「・・・なんか腹の立つ使者だな、緑青兄。」
腹だたしげに戚はその犬の消えた辺りにもち米をまいた。また麟が何かの厄介ごとをおしつけられたのだということは3人にはわかっていた。次から次へと、よくもまあ麟の元へ厄介な仕事が転がり込むものだ、と三人はそれぞれに溜め息をついて沈黙した。そう言われてみれば、先代の師匠も、よく、よその厄介な用事が回ってきていたと、戚は思い出した。「年寄りをこき使いおる。」 と、師匠は笑いながら出駆けていた。その当時は、そんな大層な仕事ではなく、単に年配の師匠を立てて仕事が舞い込むものと思っていた。師匠も無傷で、元気に何事もなかったかのように戻って来た。しかし、実は大変な仕事であったのである。麟に代わった途端に、この若い道士は、無事に戻ってはくるが、怪我したり気の使い過ぎでフラフラになっていることが多い。先代の後を継いだばかりの経験の浅い麟だというだけでは、その理由にならない程に。先代の能力と経験は計り知れぬものがあったが、今更ながらに、そのすごさに驚かされるのである。そして、それを継いでしまった麟を改めて、すごいんだなと戚は思う。
「迎えに行きましょう。緑青兄。」
子夏は長剣を手にしたまま、となりの緑青に頼んだ。しかし、緑青は木剣を壇に戻して子夏の長剣をその手から取り上げ鞘にしまった。
「・・・行かないぞ、子夏。言っても無駄なことだ。あの犬すら志怪と分からん俺たちが行っても麟の邪魔になるだけだ。」
それだけを言うと、ぷいっと向きをかえて、この年長の道士は奥へ入った。悔しさと情けなさで胸が一杯になった緑青は、自室で大きく溜め息をついた。助けてやりたくても、どうしたらいいのか自分にはわからない。行ってもいいのかどうかも判断がつきかねた。
しばらくして緑青の部屋の前で、呼ぶ声が聞こえた。
「何だ。」
「子夏兄がでかけましたよ。薬草と木剣を持って・・・・」
やると思った、と緑青は口にせず、「門の鍵を開けておきなさい。」 とだけ戚に命じた。
クヨクヨと悩んでいる自分と違って、子夏は迷わなかった。思い込みも激しいが、それ以上に過保護で世話好きで心配性の子夏は、隣村までトットと出掛けていた。
「私くしの主人はすでに亡くなって数か月たつのですが、いい墓所がみつからず、こちらの道観で面倒を見て頂いているのです。」
道観の本堂の片隅で、その女性と麟は向かいあった。椅子に座った女性が食事や茶などを出してもてなしてくれたが、それには口をつけなかった。目の前の女性が悪しき志怪の類いではないと感じてはいるが、こればかりは少々遠慮したかった。たぶん、そのもとはお供えであろうことは分かっていたからだ。女性のほうも無理にとはすすめず、すぐに片付けさせた。
「主人の心が迷って、このままではキョンシーになります。どうか、私くしの願い聞き届けて下さい。」
深々と頭を下げた女性は、懐からひとつの櫛を取り出した。それは、塗りの美しい櫛で、飾りにいくつか真珠と宝石がはめこまれたものであった。
「それは、見掛けのいい贋物でございます。主人の持っていたのは、それと寸分違わぬもので真珠と宝石が全て本物だったそうでございます。」
「これは違うのですか。」
「はい、真珠も宝石もガラス細工でございます。お棺に入れる時にすり替えられてしまったと、主人はそのことで心が乱れております。どうか、それをお持ちになって、旦那様に会って本物と取り替えてきて頂きたいのです。」
ふ-んと麟は不思議そうに櫛を取り上げた。寸分違わぬものならいいのじゃなかろうかと思って、しげしげと櫛を見た。その様子を見た女性は、
「女というのは悲しいもので、死ぬ時まで大切にしていたものを手放せないのです。それが、思い出の品ならなおのこと。」
と、麟に対する答えの様に言葉を投げかけた。はっとして、若い道士はその言葉に軽く頭を下げて、「若輩者で申し訳ありません。」と、返した。自分だって角端に貰った杖は後生大事に持ち歩いている。それを勝手に取られたら悲しいだろう。
「あなたのご主人に逢わせては頂けませんか。できれば少しでも心を鎮めてお待ち頂きたいので、私の知っている経文を唱えさせて下さい。」
麟は櫛を机に置いて、目の前の女性に頼んだ。心が迷ってキョンシーになって消滅させるのはどうしてもさけたいと、麟は切実に願ってしまう。かって、自分の許嫁を、それで死なせてしまっただけに、そんな別れ方は夫婦の間ではさせたくなかった。しばらく沈黙していた女性は立ち上がって、麟を道観の片隅に向かって案内した。そこは、預かったお棺の安置場所で幾つもの棺が並んでいた。あるお棺の前で女性は小声で、「ご主人様、ご主人様。」と、呼んだ。すると、中からすっと霊鬼のような女性の姿が中空に浮かんだ。
「この方が櫛を取り替えてきて下さいますので、ご挨拶にまいられました。」
その女主人の姿に軽く会釈して見上げた。もう相当、恨みや怒りがその人を取り巻いているのがわかった。これなら、もう数日しないうちにキョンシーとなるだろう。一刻の猶予もないことを若い道士は知った。
「無礼な申し出をいたしますが、どうかお許し下さい。このままでは、あなたは、すぐキョンシーとなって人を襲うでしょう。そうなったら、もうこの櫛の本物をお返ししても嬉しいと思うことも、旦那様を愛しいという気持ちも失くしてしまいます。私が、あなたからその恨みや怒りを少し取ってしまってもよろしいですか。」
女主人は、こくりと頷いたが、「どうやって?」と、聞き返した。
「あなたの身体から負の念を除くのは、口からその念を吸い出すしかありません。本当は血縁者が良いのですが、お許し下さいますか。」
麟が必死なのは、他のふたりにも伝わった。女主人はこくりと頷いて、自分の身体の眠る棺のなかへ姿を消した。
「私くしが、主人から吸い出してはいけませんか。」
おそるおそる女性は代替案を出したが、それは、麟が退けた。
「・・・・だめです。だってあなたは吸い出せないでしょう? 人形なのだから。もし、吸い出せても今度はあなたが悪鬼になります。」
なるほどと、女性はすぐに退いた。麟が、ろうそくの明りのなか、棺の蓋をずらすと、そこには今し方まで生きていたのかと思うような女性の死体が眠っていた。
「では、まいりますね。」
ゆっくりと若い道士が、女主人の口唇に自分の口をかさね、ゆっくりと息を吸い、そして、がばっと起きあがって息を吐いた。その息は、白く澱んだ念を一緒に吐き出す。何度も、そうやって白い息を吐き出して麟は考えた。これほどの悲しみをためてしまった人をうまく冥界まで、送ってやれるのかどうか、それは疑問である。
この世に残した未練が多ければ多い程、人は鬼に変わるのである。明日の朝一番に櫛を返してもらいに出駆けようと、そんなことを考えながら作業をつづけた。
この女主人が生きていたら、とんでもないことをしてるなぁと、思いかけた時、ポカリと頭をたたかれた。
「わしの主人になにをしておるか。 この若造め。」