茅山道士 白い犬1
後ろには自分が立っていた。麟がびっくりして、しばし動作を止めたが、すぐに、ゲホゲホと咳こんだ。びっくりして女主人の悲しい気を自分のうちへ吸い込んでしまったのだ。一度に麟の身体が冷めてゆく。悲しい悔しいという女主人の心が、麟の心を侵す。冷汗が背中に流れ、若い道士は膝をついた。すぐに吐き出さないとと、慌てれば慌てる程に、自分がその気を身体にためていくことがわかる。棺から、すっと女主人の魂が浮かんで、素早い動きで麟の口唇から自分の気を吸い出した。
「申し訳ございません、道士様。私くしの憎しみや悲しみの心はそれほど毒になっているのですね。」
荒い息をついている道士の側で女主人はポロポロと涙を流した。随分と麟が悪い気を吸い出したので、女主人の心は少しばかり人に近いものに戻っていた。透けているその手で麟の背中をさする。すぐ側にいた偽者の麟を女主人はキリリと睨んだ。
「私くしの悪い気を吸い出して下さっていたのに、おまえはなんて事をするの。」
「・・・・でも、ご主人様に口づけしているとしか見えませんで、不埒な奴だとばかり・・・・」
偽者の麟は、小さくうなだれてひざまづいた。ようやく息の落ち着いた麟は、その女主人の手をすりぬけて、「怒らないで。」と、言った。
「せっかく心が落ち着きそうなのに、怒ってはだめです。・・・・助けて頂いてありがとうございます。でも、また吸い込まれましたね。その分は抜きましょう。」
ゴホゴホと咳込んで立ち上がった道士はにこりと笑って、自分の偽者に、「心配しなくても大丈夫です。」と、声をかけてから、女主人を身体に戻して、もう一度先程の作業に戻った。まぁ確かに不埒なまねだろうな、と偽者が言った事に内心おかしかった。他に方法がないので仕方なくこうやって気を吸い取っているが、相手の女主人だって心穏やかではないだろう。何回か白い妖気のようなものを吐き出して、少し白から透明に近くなってきたので、そこで道士はやめて、棺を閉じた。
道士はすぐ側の椅子に腰掛けて、ふうと息を吐き出した。その息は微かに白い色がついている。吐き出しているが少しずつ残っていた分であろう。わずかな量だがじわじわと効いてくる。すっと若い道士は立って自分の気を高めるため、ゆっくりと腹式呼吸をはじめた。じわじわと、気を丹田にためる。ごくりと、偽者は息をのんだ。若い道士の身体がみるみる気に溢れていく。陽炎のように道士のまわりの空気が揺らめき、それは一気に開放された。偽者はギャッと一声あげると倒れ込み、白い犬にかわった。術が解けてしまったらしい。
「わしを殺す気か、このバカもの。」
白い犬はよろよろと棺の下に動いた。それでも、道士はまだ複雑な印を結び、静かに経文を唱えた。それは、死んだ者を供養する経文で、長い間、道士は繰り返し繰り返し唱えた。
白い犬は成仏してはたまらぬと、その場から逃げ出し、死者と道士だけが残された。