茅山道士 鵬退仙
麟を見つけると大声で子夏を呼んだ。すると奥から子夏が駆けて来て麟を中へ入れた。
「いいかい、麟。今からおまえの面倒は緑青がみてくれる。私達も出来るだけの世話はし
てあげるから、心配しなくていい。」
目覚めて不安そうな麟に子夏はそう言葉をかけてやり、緑青の元へ連れていった。
自室で緑青は書物など読んでいたが、麟がやって来ると妙に緊張してたどたどしい口調
で子夏が先程言ったのと瓜ふたつのことを言った。その様子がおかしかったので子夏が笑
い転げながら緑青に『リラックスして、若師匠さま。』 と、肩を軽くたたいた。
鵬との約束の十二日後がやって来た。また、皆が寝静まった頃に鵬が空からやって来た
。その鵬を複雑な面持ちの緑青と何が始まることかとビクビクしている麟が迎えた。麟の
さんし 三尸はちゃんと駆除しておいたか、と鵬が尋ねるのに緑青が薬事法とおふだによ
る駆除法の両方を用いて行ったことを告げた。鵬は満足げに何度か頷いた。
「さて、これから麟を茅山に於いて修行させるのだが、緑青よ。ひとつ、おまえに守って
もらいたいことがある。」
と前置きして仙人になった道士は麟の魂が体から離れている間はけっして外の光に当てぬ
ようにと言った。また、麟を呼んだり帰したりするために麟の左眼を預かっていくが、修
行が終わるまでは左の眼をけっして夜の月や星の光、露や霜に当てぬことなどを言いつけ
た。
「それと、もうひとつだ。麟の魂が身体に戻って麟が意識を戻したら何時であろうと食事
をさせてやって欲しい。離魂は大変精神力を必要とするのでな。古来から言うだろう、『
腹が減っては・・・』 というあれだ。」
それだけを言い終わると麟に近づいて左の眼を袖ですっと隠した。「緑青、さらしはな
いか?」と伸ばした手に緑青がさらしを手渡した。仙人は麟の眼を覆っている自分の右手
から左手に何かを移して、それから麟の左眼にさらしを巻いた。
「これで、よし! 麟、しばらくは不自由だろうが、じきに馴れるからな。」
「お師匠様、私くしはこれから茅山に行くのですか?」
「そうだ。なに、心配することは何もない。すでにおまえの頭にはわしの術と記憶が入っ
ている。言わば、それを引き出すだけのこと。それ程 難しく考える必要はない。では緑
青、後のことは頼んだぞ! 」
仙人が幾つかの呪文をとな誦えると麟の身体から魂がはずれて身体が、がっくりと操り
人形の糸が緩められたように倒れた。麟は不思議に思いながら倒れた自分を眺めた。なん
ともおかしな気分である。倒れているのも自分なら、それを見ているのも自分なのである
。緑青には浮かんでいる麟は見えない、仙人は緑青に別れの挨拶をして麟の袖を捕まえる
と、そのまま空を駆けて行った。
それから百日の間、約十日に一度の割合で麟は意識を戻したが、それ以外はずっと眠っ
たままで過ごした。身体の筋肉をまったく動かさないでいたので手や足がすっかり細って
歩くと骨が砕けるのではないかと思うほどになってしまった。 麟は眼が覚めても緑青と
一言も話さなかった。どうやら茅山にいる鵬仙人に家人との会話を堅く禁止されているら
しい、その徹底ぶりは大変なものだった。食事をしてしばらくは、ただぼんやりと外の景
色や空に浮かぶ雲などを眺めて過ごしている。現実と離魂した世界との格差を埋めるよう
に、ひとつ、ひとつ現実を認識しているようだった。そして、帰って来る度にその度合い
はひどくなったように緑青は感じている。麟自体もどこかが変貌していく、内側からの変
化である。以前、自殺から救われた頃の麟は全てに対して諦めを前面に押出していた。だ
が、今はなにかに対する責任感と使命感が彼から、ちらりと見え隠れするのだった。それ
程 我が師が与えた術は有用なものなのだろうか、緑青は好奇心を大きく広げて麟に尋ね
た。しかし、麟はそれに答える筈もなく、ただ残念そうに微笑むのみであった。今の彼は
現実世界ではほとんど無力だった。口は利けぬ、左眼を欠いた為に距離感はなく、そして
日々のほとんどの時間を茅山での修行に使う。現実に居る時は、ただぼんやりと、たたず
んでいるだけの存在だった。
百日が過ぎ、茅山の洞天での修行は一通り終わった。後は自分の力量がものをいう経験
の世界である。どうにかこうにか、術を身につけた麟は鵬から最後の試験を受けた。それ
は麟と鵬が出会った冥界へ降りて冥府の役人のもとへ書類を届けて来るというものだった
。この術は簡単明瞭なものではない。一旦、自分の身体を仮死状態で放置して魂だけを冥
界へやる。ひとつ間違えば冥界から帰って来れないという事態が起こらないわけではない
のだ。まず、おふだを数枚用意することから始まる。それから鵬が麟を助けに行った手順
を踏んで今度は麟が冥界へと降りて行った。
冥府の入り口で小役人に鵬仙人から書状を届けに来たことを告げると、ふたつ返事で長
官の執務室まで通された。そして長官にその書状を渡すと全部を読み終えてから役人を呼
び、書庫から死籍の麒麟の章を持って来るように命令した。麟が、どう対処したらよいの
かわからずに待っていると先程の役人が飛び込んで来て長官に重そうな装丁の書物を渡し
た。
「これ、そこの麟とやら、おまえの番の相手は確か麒氏と言ったな。」
長官は確認が取れると麒氏という項目を探し始めた。どういうわけなのだ。麟は不思議
に思った。あの書物にはすでに麒氏の名前など載っている筈もないのだ。自分が確認した
のだから。そして残りの人生をあの仙人に渡したのだから。
「あった! あった! 麟よ。よく見るがいい。鵬仙人からの頼みごとはおまえにこの死
籍を見せることだ。」
指されているところには麟が生まれ育った長江河岸の村の名前と麒氏の名前が載ってい
た。そして彼女は城隍神の裁きを終えて再び人間界へ戻ったことが記されていたのだった
。麟がその項目を読んだことを確認すると長官は直ちに書物を閉じて鵬仙人のもとへ帰る
ように言った。なにか狐にでもつままれたような心持ちを味わいながら麟は現存世界へと
戻った。なぜ。麒氏の名前がそこに記されていたのかを早く師匠に聞きたいと大急ぎでは
やる心を、なおはやらせて戻って行った。鵬は、ようやく弟子が戻って来たので、ひとま
ず安堵した。高度な技を使えることが立証されたからである。
「お師匠様、今 冥府で死籍を眺めて参りました。そこに麒氏の名前があり、あれは再び
人間界へ戻ったと・・・・記されておりました。」
これはいかなることでございましょうか、麟は意識を戻すと同時に鵬仙人に問うた。
「麟よ、ただひとつだけ教えておこう。麒麟の許嫁をした者は必ず添うことができる。だ
が、今は、その時ではない。」
昔から冥府の死籍には麒麟の章という項目があった。それは麒麟の約束が為された時か
らそこに載せられ両名が無事添い遂げるまで抹消されることはない。今のように麟が生き
残り、麒氏が亡くなってしまった場合は添い遂げていないので、そのまま残っている。彼