茅山道士 鵬退仙
絶息しており、私くし自身も深手を負って気を失っていました。村へ連れて帰られても私
の意識は戻らず、その間に死んだ麒氏は夜な夜な棺から抜け出し村を徘徊しました。村人
は結婚までわずかという時に死んだので未練が残ったのだろうと哀れみ黙って為すがまま
にしておいたのですが、ある家で徘徊する麒氏に村人が一人殺されてしまいました。それ
で道士様によって捕らえられライチの木で燃やされてしまいました。私の心が戻った時に
は麒氏の屍すら残っていない状況で私は麒氏に一言詫びを言う為に冥界まで降りてきたの
です。・・・・それなのに魂が消滅してしまうなんて・・・・」
ここまで言うと麟はこらえきれずに再び泣き出してしまった。鵬は黙って様子を見てい
た。消滅した魂はどんなに優秀な道士でも、もはやどうする術もないのだ。しかし、自分
の勘にひっかかったのはやはり事実であることも解った。麟という男、道士ではないが、
すでにいくらかの超常力を備えているらしい。"胸騒ぎ"はおそらくそれの現れであろう。
幾分気持ちが治まったのか鵬に対して大変見苦しいところをお見せして申し訳ございま
せん、と謝った。よく見れば、まだ若い青年で少年のあどけなさが残っている。ぼんやり
と床を眺めている麟の胸中にはまだ麒氏がいる。鵬にはそれが痛い程に分かる。生まれた
時から許嫁として育ち、結ばれることを望んでいた若い麒麟は片割れを自分の過ちで失い
、自分もまた深く傷つき苦しんでいるのだった。しばらくすると麟が立ち上がって部屋か
ら出て行こうと扉に向かって行った。自分の罪を城隍神に申告して正しい裁きを受けるこ
とを望んだからである。
「待ちなさい。おまえの生命はまだ五十年の寿命が残っている。使う気がないのなら、そ
の五十年をこの年寄りに預けてみる気はないかな。」
「私の生命をですか? 道士様」
「わしはな、もうすぐ神仙界に退仙する身で時間がないのだが、どうしても後継者が必要
なのだ。しかし、今更探している暇もない。そこへおまえさんが飛び込んで来た訳だ。ど
うだ、わしに、その五十年をくれないか。」
自分の生命が道士様の為になるのなら喜んでお譲りいたしましょうと麟は行ったが、鵬
は笑いながらいくら仙人でも自分の寿命と他人の寿命を入れ替えることなどは出来ないこ
とを教えた。
「それでは私にどうしろ、とおっしゃるのですか。」
「何、簡単なこと わしがおまえに術を授けるゆえ、それを自分のものとし、次の者に渡
してやってくれればよい。ちょうど五十年かかる仕事だからな、おまえに頼むだけのこと
だ。しかし、ただ修業したからといって、わしが授ける術をやってはならぬ。この術を使
うにふさわしい者に与えなさい。わしがおまえに渡すように自分の勘にひっかかる者に与
えれば良い。どうかな。」
鵬は微笑み麟を見た。麟も鵬を見て微笑み、「どうせ捨てようとした生命ならば道士様
のお手伝いに使えるのなら喜んでいたします。」と言った。ほのかな安堵感が心に灯った
。どうやら自分が持つ茅山道士の称号は系譜に続くことが出来るのだ。鵬は長官の机で何
やら書きつけを作り、それを麟に持たせた。ひとまず鵬自身は現存世界へ戻らねばならな
い。麟に持たせた書きつけは長官に宛てたもので麟の寿命の五十年を全うさせてから城隍
神の裁きを受けさせるから直ちに現存世界へ麟を戻すように指示されていた。
「ひとまず、わしは戻っておるから後から帰って来るといい。その書状を長官に見せれば
直ちにおまえは帰される筈だ。ではその時まで、」
そう言うと鵬は現存世界へと戻って行った。早速、麟は長官を探し、その書きつけを手渡
したのである。
鵬が現存世界へ戻って心と身体が合致すると身体をゆっくりと起こした。弟子たちが一
斉に呼びかけて来たので無事戻ったことがわかり、安堵した。いかな道士といえど冥府へ
往復するのは容易ならぬことである。眼を明けて隣りを見るとそこには冥府へ行く前と同
じく麟が静かに横たえられていた。身体に触るとかすかにだが温もりが伝わってくる。ど
うやら冥府の長官が書きつけを見せられて即実行に移したらしい。鵬は弟子たちに今より
三日後の夜に麟の身体を外に出して霜や露がかかるようにし薄い粥を飲ませるように命じ
た。弟子達は師匠の命じた通りに麟の身体を擦ったり、うすい粥を作って喉へ流してやっ
たりして生き返るまで何かと世話をし介護してやった。 と、二、三日すると麟が息をし
だした。一同が見守っていると、次第に眼をあけ、次の日の夕暮れには言葉を話すように
なり、四、五日たつと起き上がって動きまわれるようになった。歩き出して、まもなく虎
につけられた傷口も閉じ、すっかり元のからだになった。
それから数日も経たぬうちに鵬が麟を呼び冥府での約束を果たす時が来たことを告げた
。つまり鵬は退仙し現存世界から姿を消す日がやってくるのだった。
「麟、そろそろ、わしは退仙する。だから、おまえにわしの術を移す、これより二日間身
を潔めて決斎しなさい。その間何があっても話さないように」
麟は言いつけ通りに身を潔めて精神を鎮め、部屋に閉じこもった。鵬自身も決斎して自室
に籠もった。ふたりの様子が尋常ならぬことに気付いた弟子たちは騒ぎだしたが、一番弟
子の緑青が統制し、ただ黙って自分のすべき仕事に専念させた。二日後、鵬は麟を連れて
茅山まで出かけた。その間ふたりは一言の会話も為さない。足で歩けば数百里の道程だが
、空を駆けて行けばすぐに着いた。これは仙人にしか出来ない技であり鵬がすでに俗世間
の人間ではないことを物語っている。茅山の頂きに着くと静かに降りて麟を座らせた。
「よいか、今から茅山の洞天に入り中茅君の定録府に行って私が退仙することを申告して
くるから一言も話さずに待っていなさい。」
こう言うと鵬は飛び上がり雲の彼方に消えてしまった。麟は黙って空を眺めていたが日
が暮れても師匠は戻って来なかった。しかし、それでも空を見上げていた。
さて、師匠のいなくなった鵬道士の家では弟子が大騒ぎしていた。しかし、一緒にいな
くなった麟に気がついたのは緑青だけだった。以前から緑青は近々師匠が退仙することを
知っていたので、その時期がやって来た事を感じていた。それにしても疑問なのは、なぜ
自分が長江から助けて来た麟までがいないのか、ということだった。師匠が自分の生命を
賭けてまでも冥界から呼び戻した麟はやはり、ただ人ではなかったのか、と緑青は思った
。とすれば、師匠と麟が消えた理由はただひとつ、師匠の退仙に麟が何かの事由で手助け
する為に追従したということだった。なぜ、緑青は叫びたい程の衝動に狩られた。自分が
師匠の一番弟子でありながら退仙に追従することを許されなかったのに、まったく見ず知
らずの麟が・・・・という気持ちが強かった。しかし、もはや自分の追える距離に師匠は
いない。待つしかない。師匠か麟が再び姿を現すまで、緑青もまた月夜を見上げた。