茅山道士 鵬退仙
道士鵬は悩んでいた。すでに自分は神仙界からの召集を受けた身で早々に退仙(仙人と
して神仙界に入ること)して行かなければならなかった。しかし、まだ一番弟子である緑
青にすら茅山道士としての秘術は教えていない。茅山秘術は中国道士法中最高峰といわれ
る秘術で一般の道士とは別に静かに脈々と流れる系譜である。普通の道士としては一級品
である緑青は情けの深すぎるところが欠点で、情に流されて道士として本来の勤めである
"魂を鎮めること"を速やかに遂行出来ない時がある。はたして緑青に茅山秘術を教えたと
ころで使いこなせるかは疑問であった。鵬の弟子の内すでに茅山の称号を与えたものはい
ない。それだけの資質に恵まれた者がいなかったことと鵬自身が弟子を取ったのが遅かっ
たので探す時間もなかった為である。
「お師匠さま! 大変です。緑青さんが長江で溺れた人を助けてきました。」
若い弟子が大声で叫びながら鵬の部屋へ入って来た。考えていた事がふっ飛び、鵬はそ
の弟子と共に部屋を飛び出した。駆けて行くとちょうど緑青が若い男を抱き上げて玄関か
ら入って来るところだった。しかし、その若い男の様子は尋常ではない。彼の身体からは
血がしたたり緑青の衣服をも紅く染めてしまっている。単なる"溺れた"ではないことは明
らかである。
「師匠、助かるでしょうか。身体の温もりが少しずつなくなっているんです。」
緑青は男を寝椅子に降ろし鵬の顔を見、男の顔を見た。確かに男の息は消え入りそうな
程弱々しい。鵬は男をしげしげと眺めていたが何か心にひっかかるものがあり、すでに冥
界へ旅立ったこの男に逢ってみたいとおもった。弟子達に急いで祭壇を用意させ、鵬自身
は自室へ戻り精神を集中し朱の筆で符を数枚作り一枚を残して全てを灰にした。弟子が用
意の整ったことを告げに来ると道士服を着用して部屋を出た。鵬の用意が終わる頃には男
の息はすでになく、完全に死んでしまっていた。
「思うところがあって、今から冥界へ行ってこの男を連れて来る。おまえたち、私が冥界
へ魂を飛ばせたら私の体を、この男の側に置き動かさずにいなさい。」
弟子達は師匠の言いつけを聞いて頭を縦に振った。香を焚き線香に火を点けた。鵬は仙
桃木剣で印を切り 経を唱え、それから呪文を口づさんだ。祭壇の前から退き、男の前に
立ち、焼かなかった符を男の胸に置いて灰にした符を水に溶かし半分を男に吹きかけ、そ
の残りの半分を自分に吹きかけ呪文を唱えた。再び祭壇の前に立って剣で印を踏み、懐か
ら神仙の丸薬を取り出して残りの水と共に飲み込んだ。しばらく祭壇の前で呪文を唱えて
いたが、ばったりと倒れて動かなくなった。弟子達が抱きかかえ男の側にもう一つ寝椅子
を用意して師匠を静かに寝かせ、皆がその側に付いて師匠の帰りを待つことにした。
三魂七魄の内三魂を身体から飛ばせて冥界へと下って行った。冥界へ着くと冥府の役人
が出迎えていた。
「近々 神仙界へ退仙される鵬さんが如何なお越しでございましょうか。長官もお待ちし
ております。ひとまず中へお入り下さい。」
丁重な応対で鵬は迎えられ冥府の長官に逢うことになった。神仙界においては仙人とな
る者は冥府の役人よりも位がずっと上位でいかな長官と言えど礼節は尽くさねばならない
。鵬は長官に先程来たであろう男のことを尋ねたが、まだ書類が回っていないらしく、長
官は慌てて側付きの役人に書類を取りに行かせた。すぐに役人は戻って来た。確かに書類
は出ているのだが、当の本人は城隍神の法廷に出廷せず行方をくらましていて冥府内でも
担当の役人が大騒ぎしていることを告げた。書類を手にした長官は書棚に並ぶ帳簿を引っ
張って来て、今日亡くなる予定の者かどうかを調べた。
「おや、この者はまだ五十年も寿命があるのにどうしたことだろう。」
「長江に入水した者のようですな、私の弟子が長江から引き上げてきました故」
「しかし、神仙界へ退仙しょうという方が来られる程の一大事とはおもえませんが、その
男に何をしようというのですか。 鵬さん」
長官は鵬がわざわざ来た理由がわからずに尋ねた。男の様子が尋常ではなかったので、
寿命を問うてまだ尽きていないのなら助けてやろうと思い、ここを訪ねたのであると鵬は
言った。それと口にはしなかったが道士の勘が、あの男をなぜか無視して死なせることを
拒んだ為である。それでなければ、わざわざ身許も判らぬ男の為に冥界まで降りて来るよ
うなことはない。
「長官! 男がみつかりました。冥府の書庫へ忍び込んでいたところを捕まえてございま
すが、いかがいたしましょうか。」
役人が申告にやって来たので長官はどうしたものかと鵬を見た。しばらくその男と話が
してみたいのだが、と鵬は切り出した。長官は軽く頷いて男をここへ連れて来るように命
じた。しばらく待っていると数人の役人が一人の男を連れて来た。男は心が翔んでいって
しまったように茫然自失していた。操り人形のように側から役人達に支えられるようにし
て歩いている。男は冥府の書庫に忍び込み冥府に来た女のことを探していたらしい。しか
し、その来た筈の女の名前をみつけられずにいたのだった。長官は自分の部屋を提供する
べく席から外れ、連れて来た役人達と一緒に出て行った。
「お若いの名前はなんというのかな。」
鵬は優しく尋ねた。男はポツリと『麟』と答えた。
「何があって長江へなど入水したのか、よければ私に話してみないかね。」
うつむいていた男はそこで顔を上げて鵬を見た。道士服を着ているのがわかると少し質
問してもいいか、と聞いてきた。鵬は頷き、「話してみなさい。」と微笑んで返した。麟
は死して、なお未練を残した為にキョンシーとなり退治されたものの魂はどうなるのか知
りたいと言った。それは退治の仕方にもよるがおそらくは冥界に来て城隍神の裁きを受け
るであろうと答えてやった。しかし、男は不服そうに睨んでいるだけである。それで退治
の時に完全に魂まで壊されてしまっていたら、その者は永遠に消滅してしまうだろうと付
け足した。
「では、人間界へ戻ることは出来ないのですか。」
ひどく落胆した様子で床にがっくりと膝をつき泣き出してしまった。そして自分はなん
という過ちをおかしてしまったのか、と慟哭した。
「泣いたところで仕方がない。さあ、何もかも私に話してしまいなさい。」
それを聞いて麟は泣き叫ぶのをやめて話しはじめた。
「道士様、どうかお聞きください。私は麒麟の許嫁をした者です。私の妻となるのは麒氏
という女でした。ある日、隣りの村へ届け物に行き、その帰り日が暮れて道が暗くなって
しまいました。私くしは何やら胸騒ぎがしてくるので、あちらで泊ろうと思いましたが、
麒氏がどうしても帰ることを望むので彼女を馬に乗せ、峠道を急いで戻りました。無事に
村近くまで帰り着いたのですが、道に虎が出てまいりました。私たちふたりの助けを呼ぶ
声が村まで届いて村人がやって来てくれた時には、すでに遅く麒氏は喉笛を噛み切られて
して神仙界に入ること)して行かなければならなかった。しかし、まだ一番弟子である緑
青にすら茅山道士としての秘術は教えていない。茅山秘術は中国道士法中最高峰といわれ
る秘術で一般の道士とは別に静かに脈々と流れる系譜である。普通の道士としては一級品
である緑青は情けの深すぎるところが欠点で、情に流されて道士として本来の勤めである
"魂を鎮めること"を速やかに遂行出来ない時がある。はたして緑青に茅山秘術を教えたと
ころで使いこなせるかは疑問であった。鵬の弟子の内すでに茅山の称号を与えたものはい
ない。それだけの資質に恵まれた者がいなかったことと鵬自身が弟子を取ったのが遅かっ
たので探す時間もなかった為である。
「お師匠さま! 大変です。緑青さんが長江で溺れた人を助けてきました。」
若い弟子が大声で叫びながら鵬の部屋へ入って来た。考えていた事がふっ飛び、鵬はそ
の弟子と共に部屋を飛び出した。駆けて行くとちょうど緑青が若い男を抱き上げて玄関か
ら入って来るところだった。しかし、その若い男の様子は尋常ではない。彼の身体からは
血がしたたり緑青の衣服をも紅く染めてしまっている。単なる"溺れた"ではないことは明
らかである。
「師匠、助かるでしょうか。身体の温もりが少しずつなくなっているんです。」
緑青は男を寝椅子に降ろし鵬の顔を見、男の顔を見た。確かに男の息は消え入りそうな
程弱々しい。鵬は男をしげしげと眺めていたが何か心にひっかかるものがあり、すでに冥
界へ旅立ったこの男に逢ってみたいとおもった。弟子達に急いで祭壇を用意させ、鵬自身
は自室へ戻り精神を集中し朱の筆で符を数枚作り一枚を残して全てを灰にした。弟子が用
意の整ったことを告げに来ると道士服を着用して部屋を出た。鵬の用意が終わる頃には男
の息はすでになく、完全に死んでしまっていた。
「思うところがあって、今から冥界へ行ってこの男を連れて来る。おまえたち、私が冥界
へ魂を飛ばせたら私の体を、この男の側に置き動かさずにいなさい。」
弟子達は師匠の言いつけを聞いて頭を縦に振った。香を焚き線香に火を点けた。鵬は仙
桃木剣で印を切り 経を唱え、それから呪文を口づさんだ。祭壇の前から退き、男の前に
立ち、焼かなかった符を男の胸に置いて灰にした符を水に溶かし半分を男に吹きかけ、そ
の残りの半分を自分に吹きかけ呪文を唱えた。再び祭壇の前に立って剣で印を踏み、懐か
ら神仙の丸薬を取り出して残りの水と共に飲み込んだ。しばらく祭壇の前で呪文を唱えて
いたが、ばったりと倒れて動かなくなった。弟子達が抱きかかえ男の側にもう一つ寝椅子
を用意して師匠を静かに寝かせ、皆がその側に付いて師匠の帰りを待つことにした。
三魂七魄の内三魂を身体から飛ばせて冥界へと下って行った。冥界へ着くと冥府の役人
が出迎えていた。
「近々 神仙界へ退仙される鵬さんが如何なお越しでございましょうか。長官もお待ちし
ております。ひとまず中へお入り下さい。」
丁重な応対で鵬は迎えられ冥府の長官に逢うことになった。神仙界においては仙人とな
る者は冥府の役人よりも位がずっと上位でいかな長官と言えど礼節は尽くさねばならない
。鵬は長官に先程来たであろう男のことを尋ねたが、まだ書類が回っていないらしく、長
官は慌てて側付きの役人に書類を取りに行かせた。すぐに役人は戻って来た。確かに書類
は出ているのだが、当の本人は城隍神の法廷に出廷せず行方をくらましていて冥府内でも
担当の役人が大騒ぎしていることを告げた。書類を手にした長官は書棚に並ぶ帳簿を引っ
張って来て、今日亡くなる予定の者かどうかを調べた。
「おや、この者はまだ五十年も寿命があるのにどうしたことだろう。」
「長江に入水した者のようですな、私の弟子が長江から引き上げてきました故」
「しかし、神仙界へ退仙しょうという方が来られる程の一大事とはおもえませんが、その
男に何をしようというのですか。 鵬さん」
長官は鵬がわざわざ来た理由がわからずに尋ねた。男の様子が尋常ではなかったので、
寿命を問うてまだ尽きていないのなら助けてやろうと思い、ここを訪ねたのであると鵬は
言った。それと口にはしなかったが道士の勘が、あの男をなぜか無視して死なせることを
拒んだ為である。それでなければ、わざわざ身許も判らぬ男の為に冥界まで降りて来るよ
うなことはない。
「長官! 男がみつかりました。冥府の書庫へ忍び込んでいたところを捕まえてございま
すが、いかがいたしましょうか。」
役人が申告にやって来たので長官はどうしたものかと鵬を見た。しばらくその男と話が
してみたいのだが、と鵬は切り出した。長官は軽く頷いて男をここへ連れて来るように命
じた。しばらく待っていると数人の役人が一人の男を連れて来た。男は心が翔んでいって
しまったように茫然自失していた。操り人形のように側から役人達に支えられるようにし
て歩いている。男は冥府の書庫に忍び込み冥府に来た女のことを探していたらしい。しか
し、その来た筈の女の名前をみつけられずにいたのだった。長官は自分の部屋を提供する
べく席から外れ、連れて来た役人達と一緒に出て行った。
「お若いの名前はなんというのかな。」
鵬は優しく尋ねた。男はポツリと『麟』と答えた。
「何があって長江へなど入水したのか、よければ私に話してみないかね。」
うつむいていた男はそこで顔を上げて鵬を見た。道士服を着ているのがわかると少し質
問してもいいか、と聞いてきた。鵬は頷き、「話してみなさい。」と微笑んで返した。麟
は死して、なお未練を残した為にキョンシーとなり退治されたものの魂はどうなるのか知
りたいと言った。それは退治の仕方にもよるがおそらくは冥界に来て城隍神の裁きを受け
るであろうと答えてやった。しかし、男は不服そうに睨んでいるだけである。それで退治
の時に完全に魂まで壊されてしまっていたら、その者は永遠に消滅してしまうだろうと付
け足した。
「では、人間界へ戻ることは出来ないのですか。」
ひどく落胆した様子で床にがっくりと膝をつき泣き出してしまった。そして自分はなん
という過ちをおかしてしまったのか、と慟哭した。
「泣いたところで仕方がない。さあ、何もかも私に話してしまいなさい。」
それを聞いて麟は泣き叫ぶのをやめて話しはじめた。
「道士様、どうかお聞きください。私は麒麟の許嫁をした者です。私の妻となるのは麒氏
という女でした。ある日、隣りの村へ届け物に行き、その帰り日が暮れて道が暗くなって
しまいました。私くしは何やら胸騒ぎがしてくるので、あちらで泊ろうと思いましたが、
麒氏がどうしても帰ることを望むので彼女を馬に乗せ、峠道を急いで戻りました。無事に
村近くまで帰り着いたのですが、道に虎が出てまいりました。私たちふたりの助けを呼ぶ
声が村まで届いて村人がやって来てくれた時には、すでに遅く麒氏は喉笛を噛み切られて