無口と饒舌と糸電話
「奈々」
久しぶりにその声を聞いたのは、ざあざあと音を立てる雨にうんざりしながら傘を開こうとしたときだった。あまりに久しぶりだったから、あ、と声が漏れた。
「今日、一緒に帰らない?」
頷きながらもその問いに違和感を覚える。こんなことを訊いて来ることなど今まで無かったのに。いつも声を掛けてきたら何も訊かずに隣を歩くというのに。
傘を開き、二人で歩く。けれど弥生は何も話さず、傘にぶつかる雨の音が響くばかり。何故だろう。隣を歩くのは弥生なのに。傘をさしている分、余計に開いた二人の隙間がいけないのだろうか。
酷く、居心地が、悪い。
沈黙が辛い。
何か。何か話さなければ。
話題を求めて頭の中を探る。けれど、ちっとも見つからない。あせればあせるほど、頭の中は白くなっていく。背中に汗が滲む。弥生が何か話してくれないかと隣を見る。けれど、見えるのは弥生の赤い傘だけで、その向こうの弥生は何を思うのか一言も発しない。
雨は傘に当たってぱらぱらとうるさい。その音を聞きながら、ただ、黙ってその沈黙の時が過ぎるのを待った。部屋に、あの部屋に着いたら、いつも通りになるだろうか。そう思うと自然と足早になる。
ふと、隣を見ると弥生の姿が無い。驚いて回りを見渡す。と、少し後ろに弥生は立っていた。立ちすくんでいた。あせるばかりに弥生が立ち止まったことに気付かなかったらしい。しばし、その場で弥生が追いついてくるのを待ったけれど、歩き出す気配が無い。不思議に思って歩み寄る。
「奈々」
傘の向こうで弥生が話し始める。雨がざあざあ、ぱらぱらとうるさい。
「私達ってなんなの?」
質問の意味がわからない。どういうことかと尋ね、首を傾げる。弥生は低く呟き続ける。
「今まで奈々が何も文句を言わないから、嫌がらないから、これで良いんだと思ってた。けど、私といるとき、奈々は全然話さないし、楽しそうじゃない。だったら、なんで。なんで私といるの? 本当は私とああいうことするの嫌なんじゃないの?」
それは違う。嫌なわけが無い。一緒にいて楽しくないなんてことは断じてない。文句を言う必要が無いから何も言わないのだ。そう思った時には弥生は次の問いを投げかけてくる。
「私は奈々が好きだよ。奈々は私のことをどう思ってるの? 奈々にとって私って何なの?」
頭の中から自分の弥生に対する気持ちを言い表す言葉を探す。けれど、思い当たるものはどれも皆、虚ろで、胡散臭く、陳腐なものに思えてならなかった。目の前の想い人に伝えるには適当ではない気がした。これだけは正確に伝えなくてはと言葉を探す。
雨が、ざあざあ、ぱらぱらと考えを邪魔する。
うるさい。
言葉がどこかへ流されていく。
弥生の傘を雨が滴り落ちる。ぽたぽたと、次から次へと滴り落ちる。言葉は掴もうとした手から零れ落ちる。
「わかった。もういい」
私の答えを待たずに、弥生は踵を返し去っていく。声を掛けて呼び止めようにも、言葉が出てこない。何と言って呼び止める? 呼び止めた弥生に何と言う? もどかしい自分に怒りを感じながら、弥生の後姿をただ見ていた。その赤い傘が見えなくなったとき、そこが以前は手を振り別れた、私達の岐路だったことに気付いた。そうだ、あの日まではここで別れていたのだ。