circulation【2話】橙色の夕日
三十秒の合図と共に、デュナが液体をフラスコに戻した。
ふぅ。と息をつくデュナとファルーギアさん。
「これで、あとはフィーメリアさんが目覚めるのを待つだけね」
じっとフィーメリアさんの横顔を見つめているデュナの言葉に、ファルーギアさんが「そうですね」と頷いた。
しかし、風の障壁はまだ張られたままで、二人がフィーメリアさんに近付こうとする様子もない。
それどころか、デュナの肩にはまた風の精霊が姿を現していた。
首を傾げる私に、後ろからスカイが声をかけた。
「障壁が役に立つのはこれからだよ」
途端、ベッドの上のフィーメリアさんが大きく波打った。
フィーメリアさんはそのまま数度、ビクビクと体を大きく震わせると、紫色の煙のような物を空中に吐き出した。
その量は、とても彼女一人の体内から出てきたとは思えないほどの量で、部屋が一瞬薄暗くなったほどだ。
すぐさま、デュナが風の精に煙を窓の外まで押し出させる。
「あれ、ブラックブルーの胞子なんだとさ」
後ろで、壁に背を預けているスカイがぽつりと呟いた。
相変わらず体調が悪そうだ。
障壁はデュナの立つ位置から後ろ、壁までを隙間なく覆っていた。
どうやら、あの胞子を私達が吸わないようにするためのものらしい。
まだ風の精を操っているデュナに代わって、ファルーギアさんが説明してくれる。
「ブラックブルーは、ああ見えて菌性の植物でして、ええと……きのこのようなものだと思っていただければいいでしょうか。
実を食べた者を一時的に仮死状態にして、その体内で胞子を作るのです。
丸一日程で胞子が出来上がると、仮死状態が解け、保菌者は動けるようになります。
そのさらに数日後、熟成した胞子が保菌者から咳やくしゃみと共に吐き出されるという仕組みです」
「そうだったんですか……」
なんというか、起き抜けの脳みそがファルーギアさんの台詞を右から左に流してしまったようで、どうにも気の無い返事を返してしまったが、ファルーギアさんは気にする様子もなくにこにこしていた。
よく考えれば、デュナやスカイは一晩寝ていないわけだが、ファルーギアさんはそのさらに前日から研究室に篭っていたわけで、もしかすると一昨日の晩から寝ていないのではないだろうか。
服こそ初日と違っていたが、やはりくたびれたシャツによれっとしたベスト。
笑うと何だか薄幸そうに見えてしまうところも、やつれた印象も元からだったせいか
普段とあまり変わらないように見える。
ファルーギアさんというのは案外タフな人なのかもしれない。
室内から煙を完全に追い出し、デュナが障壁を解く。
精霊達がこぞって報酬の精神をいただこうとデュナに纏わり付いた。
「デュナ、今の煙って吸うと危なかったの?」
だとしたら、フォルテは連れてこなくて正解だったかもしれない。
そんな風に考えつつ声をかけると、デュナがちょっと困った顔をした。
「うーん……。危ないって事もないけれどね。
人の体内から、ちゃんと外に吐き出される為に、異物だと感じるように出来てるのよ。あの胞子は。
つまり、ちょっとでも吸うと、それを完全に体外に出すまで、くしゃみや鼻水が止まらなくなっちゃうわけ」
なるほど……。
それは確かに、ちょっと遠慮したい。
もしかしたら、最初の実験後には、皆でくしゃみを連発していたりしたのだろうか。
そもそも、あの胞子が人間に寄生して発芽するような危険なものなら、もっとブラックブルーの認知度も上がっていただろうし、こんな風に一般家庭の庭に……いや、この場合は一般的な規模の庭ではないが、ともかく、こんな風に知らない人がうっかり食べたりするようなこともなかっただろう。
「うう……ん?」
聞きなれない声に、ベッドを見ると、フィーメリアさんが体を起こそうとしているところだった。
ゆっくりとした動作で伸びをして、静かに目を開いたフィーメリアさんが、私達を見て、これまたゆっくりと首を傾げる。
ライムグリーンの髪に、それより少し濃い瞳は、ファルーギアさんとほとんど同じ色合いだった。
ファルーギアさんを見ている限りでは、儚げな印象を受けたそれらの淡い色も、フィーメリアさんにかかるとなんだか力強く見える。
「あのう……どちら様でしょう……?」
その声は、体格にそぐわない、コロコロした響きの甘い声だった。
「ああ、姉さん、こんなにやつれてしまって……」
ファルーギアさんがベッドに駆け寄る。
連れ帰ったときよりは、確かに痩せてしまったフィーメリアさんだったが、ファルーギアさんと並ぶと、その横幅には三倍以上の差があった。
いや、ファルーギアさんは小柄で華奢な体型を隠すかのように、だぼっと服を着てあれなのだから、実際には四倍以上の差かも知れない……。
「あらホント、なんだか体が軽いわ」
悲しそうなファルーギアさんをよそに、嬉々として体を動かすフィーメリアさんに、デュナが「急に動かない方がいいわ」と声をかける。
長期間眠り続けていたせいで筋力は相当落ちているはずだ。
歩行も、最初は困難かもしれない。
簡単なリハビリの手順を説明するデュナの言葉を、ふむふむと大人しく聞き終えてから、フィーメリアさんはベッド脇でそれらをメモしていたファルーギアさんを見上げた。
「ファル、この方々は?」
そこでやっと、ファルーギアさんから私達の紹介が入る。
彼の紹介は柔らかく好意的な内容で、聞いていて嬉しいような、恥ずかしいような気分になった。
特に、デュナに対して大いに尊敬の念を抱いているようだ。
三人の紹介が終わると、フィーメリアさんが小さく首を傾げた。
「もう一人……いらっしゃるんじゃないかしら?」
慌ててファルーギアさんがフォルテの紹介をする。
この場にはいないけれど。と補足を入れて。
今目を覚ましたばかりの人が、何故フォルテの事を知ってるんだろう。
「大きな力に守られた、小さなお嬢さん。ね。一度お会いしてみたいわ」
「大きな力……?」
その呟きは、私ではなくデュナから零れた。
「ええ、有益な神様の強い加護があるような気配を感じるわ。ええと、そのあたりから……」
と天井へ指を差す、斜め上に上げられた指の先は、正確に二階で寝ているフォルテの辺りを指していた。
デュナが何かを言おうと息を吸った瞬間、フィーメリアさんのお腹が盛大な音を立てた。
あまりの轟音に、全員が苦笑する。
フィーメリアさんだけは、赤くなって俯いてしまったが。
もう何日も食べていないのだから、当然だろう。
「お腹の動きは十分活発なようだけど、まずは消化に良い物から始めた方がいいわ」
と、デュナが部屋を出る。
大慌てでご飯の手配に行ったファルーギアさんの後を追いかけて行ったようだ。
部屋には私、スカイ、フィーメリアさんの三人が残された。
「フィーメリアさん、有益な神様っていうのは、どういうもの……なんですか?」
間を置かず、スカイが話を戻す。
「うーん、その子の顔を見て、占ってみれば分かると思うのだけど……」
困った顔で首を捻るフィーメリアさん。
作品名:circulation【2話】橙色の夕日 作家名:弓屋 晶都