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circulation【2話】橙色の夕日

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 フォルテは記憶を取り戻したいのだろう。
 それは、きっとあたたかい、幸せな物のはずだ。
 だってフォルテはこんなにもいい子なのだから。
 記憶を失ったとしても、この子の性格を作り上げてきたのは今までの環境だろう。
 フォルテが私と同じように小さな幸せを喜べるのは、やはり私と同じように、誰かが傍で、それを幸せだと教えてくれたからに違いなかった。

 そう思えたから、私は今までフォルテの記憶を取り戻すことにも積極的だった。

 けれど、もし、彼女が記憶を取り戻したときに手に入れるのが、炎に包まれる景色や、逃げ惑う人々や、両親の最後だったりしたら……。

 脳裏を、幼い私を抱きしめていた母の姿が過ぎる。
 強く強く私を抱いていた母。
 全ての音が止んだ後、私を包んでいた腕が、ゆっくりと地に伏す。

 ……フォルテの記憶を呼び戻すことによって、あの子が私と同じ思いをしてしまうなら。
 どうか、もう、思い出さないままで……いてほしい……。

 どのくらいの間、床の上に座り込んでいたのか。
 ほんの一瞬だった気もするし、すごく長い時間だった気もする。

 気付くと、目の前にハンカチが差し出されていた。

 ラベンダー色の糸で"D"と刺繍が入れてあるそれは、
 私達全員にスカイがくれたお手製のハンカチだった。
 それぞれに、違う色でイニシャルが刺繍してある。
 顔を上げるとデュナが立っている。
 真っ直ぐこちらを見下ろしているその視線には、どこか悲しそうな色があった。
「どうしてこのフロアにそんなものがあったのかしら……」
 そんなもの……? ああ、この新聞の事か。
 手元へ視線を落とすと、新聞の下の方には無数の雫が染み込んでいた。
 いつの間にか、私は泣いていたらしい。
「……うわ、どうしよう、図書館の物なのに……」
 デュナは、私にハンカチを押し付けると、「貸して」と新聞を手に取った。
 一瞬の詠唱の後、小指ほどの大きさをした小さな風の精霊が
 パタパタと雫の痕を乾かしはじめた。

 可愛らしいその仕草をぼんやりと眺めていると、デュナが静かに口を開いた。
「フィーメリアさんの眠りを覚ます方法は分かったわ。
 私の持っている薬品と、ファルーギアさんのところの設備で十分対処できそうだから、安心して」
「あ、うん……」
 そういえば、ブラックブルーの事を調べていたんだっけ……。
「まだ閉館までは時間があるわ、フォルテにこの事を今教える気が無いなら、心を落ち着けなさいね」
 それは、優しく諭すような響きだった。
「……デュナは、知ってたの?」
 "そんなもの"と言われた時に、デュナはこの新聞を見たことがあったのだと感じた。
 それでも、聞かずにはいられなかった。
「ええ……」
 デュナがかすかに俯く。
 その表情を隠してしまうメガネが、今は少し憎らしい。
「どうして教えて……」
 くれなかったのか。と続けようとして、急に思い出す。

 私がフォルテを施設に預けたくないと言った日の夜。
 デュナは私にこう言った。
「あの子の家族が見つからなかったら、一生ラズが面倒を見るつもりなの?」
 しばらくの沈黙の後、答えられない私の頭をポンポンと軽く撫でて、デュナは部屋を出て行ってしまったが、もしあの時、私が返事を出来ていたなら、デュナはこの事を話すつもりでいたのかもしれない。

 覚悟が出来ていなかった私に、デュナは時間をくれたのだ。

 目の前のデュナを見る。
 彼女は、黙って私の言葉の続きを待っていた。
 責められる事をも、とっくに覚悟しているようなその姿に、何だか自分ばかりが我が儘を言っているようで情けなくなる。
「……なんでもない……ごめん……」
 どうしようもなくなって俯く私の頭を、デュナが苦笑しながら抱き寄せる。
「ラズはね、物分りが良すぎるのよ。文句の一つや二つ、言っていいんだから」
 耳元で囁くデュナの声は、とても温かく心地良かった。
「新聞、ちょっとデコボコになっちゃったけど、このくらいならいいでしょ。私が返しておくわね。
 ついでにフォルテの様子も見てくるわ。多分お話に夢中でしょうけどね」
 デュナが、努めて明るい調子で話す。
 つられて私も、ほんの少し笑顔を返すことが出来た。
「うん」
「ラズは、落ち着いたら降りてきなさい」
 そう言って、デュナがポンポンと私の背を撫でる。
 スカイがよく同じような仕草をするが、これはデュナ譲りなのだろう。
 階段へ向かったデュナが、少し先で振り返る。
「あ。そこのテラス、いい眺めよ」
 そう言うと、笑顔を残して階段へと姿を消した。

 沢山泣いてしまったせいか、まだ頭がぼんやりしている。

 デュナの指した方へ顔を向けてみるが、並ぶ本棚で壁際は見えない。
 さっき彼女が立っていた辺りまで進むと、本棚の向こうに小さな小さなテラスがあった。

 外に出て、風に当たれば少しはスッキリするかもしれない。
 今は、本に埋もれた空気が、淀んだ頭をさらにぼんやりとさせているような気がしていた。

 分厚いガラスが張られたテラスの戸に手をかける。
 鍵はかかっておらず、扉は思いのほか軽い力で開いた。
 外は既に日が傾き始めて、町がじんわりとオレンジ色に染まっている。
 少し冷たい澄んだ空気が火照った顔に当たるのが、とても気持ちよかった。

 このテラスは、二階の入り口から三つ階段を上ったところ、地上から言えば五階に位置していた。
 数階建ての小さな学校が寄り集まっているザラッカの町並みは、まるでミニチュアの可愛いお城が並んでいるようにも見える。
 その、ひとつひとつの建物には、今この瞬間も研究に夢中になっている、デュナのような人達がいるのだろう。

 空は見る間に夕焼けへと姿を変えてゆく。

 ……昨日見た夕日も、大きかったなぁ……。

 昨日の今頃は、フォルテに帰る場所が無いなんて、思ってもいなくて。
 真っ赤に燃える太陽を、ただ綺麗だと眺めていたのに。
 今は、なんだか、揺れる陽の色が怖かった。

 忍び寄る夜の空気に肌を刺されて、思わず自分の両肩を抱き寄せる。
 涙はいつの間にかすっかり乾いて、肌はひんやりと冷たくなっていた。

 キィと小さく扉の音がする。
 先ほど私が開いて閉じた、テラスの扉の音だ。
「なんだ、ラズこんなとこに居たのか」
 スカイの声だ。
 私は、なんとなく振り返れずに、逃げ出したい気持ちをぐっとこらえてスカイが近付いてくるのに耐える。
 大丈夫だ。もう涙は乾いているし、顔も赤くないだろうし、笑顔だってきっと作れる。
 デュナのイニシャルが刺繍されたハンカチは、マントの内ポケットに仕舞いこんだ。
「おおーっ。いい眺めだなーっ!!」
 私の隣まで来たスカイは、石で作られた手すりに手をかけると、そのまま飛び出さんばかりの勢いで町並みを見渡した。
「あんまり乗り出したら危ないよ」
「あはは、そうだな」
 無邪気に笑ったスカイが、トンと隣に着地する。
 私と視線が合った途端、スカイの表情が強張った。

「ラズ……お前、何か……」
 私の瞳を、スカイのラベンダー色の双眸が覗き込んでいる。
 視線を逸らさなきゃ……。