喰
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予想通り商店街のB通りには帰路を辿るサラリーマン、怪しい物を売りつけようとする輩で溢れている。喧騒が、今だけは心地いい。人が多いのはあまり好きではないのだが今回は仕方がない。ばっくんとの約束まであと五分。さてそろそろ来るかなと気持ちをリセットしてざっと辺りを見回した間に、隣に居たはずの青年が居なくなっていた。それは瞬く間。建物と建物間に出来た深い闇に投げ出された足がある。ああ、急いだ方がよさそうだ。駆けてその場へ行きつつ、その闇を遮るよう立ち塞がった。
「まずは手からなんだ」
正直、何処から喰べるのかなんて興味はないが。すっかり脅えてしまった青年の顔は青くけれど声は出さない。念を押しておいたおかげだ。これで声を出されてしまっては困る。
指先を喰べている犯人――いや、もう既に人としてのカタチはないようだ。目はすっかり弱者を狩る獣。ひと月半人間としての生活をしていない少女の体はぼろぼろだ。けれど、俺を見て笑う。待っていたかのように、笑う。ああ気持ち悪いな、おまえ。
ガリガリと肉を喰らう音が聞こえる。指先から流れる血を止めようと空いている手でそれを押さえながら、必死に唇を噛んで痛みに耐えている青年を一瞥して、少女の頭を蹴り上げた。ガッ、と案外いい音がした。
「協力ありがとう。中華まん屋の角にスーツ着たこわーいお姉さんが居るから、其処で保護してもらいなさいな。いい病院紹介してくれるよー」
に、こ、り、と笑って言えば脅えた青年はおぼつかない足取りでそのまま駆けていく。よっぽど怖かったらしい。少女は、突然なまでの蹴りに頭を振り体制を立て直した。食事を邪魔されたのが気に食わなかったらしい。さて、俺も逃げないとね。踵を返し、そのまま全力で駆けた。相手は人であって人でない。青年を攫った時も気配はなかった。既に獣。全力でなければこちらが喰べられてしまうだろう。B通りを抜けて、A通りの最奥へ駆け込む。建物と建物に囲まれ、目の前には超えることが出来ない壁。B通りと違ってA通りは人気も少なく、かなり廃れてしまっている。今居るのは薬中の奴等ばかりだ。少女が追ってくるかどうかは賭けだ。だが、まだ喰ることにも取り付かれた彼女が指如き出我慢できるはずがない。二秒後、彼女は俺の前に降り立つ。逃げ場のない俺を見て、くちびるが弧を描いた。
「――ァ、――ア――」
発せられたのは言葉とは最早呼べない。失語症か。大分獣への進行は早い。
「スプラッターってあんまし好きじゃないんだよなぁ、俺」
「よく言うヨ。君ほど血の臭いがする人間もそう多くないのに」
いやそれは決して故意ではないのですよばっくん。丸い月を背負って少女の後ろに立った友人はあまりにも夜によく溶ける。黒いコートが原因だとか、そういうのではなく。根本が。
「フム。獣相手じゃすぐに終わりそうだネ」
そう言いつつ取り出したのは月光煌く短刀。いや、ナイフと呼ぶ方が近い。仕事柄様々な道具を持っている彼だが今回のそれは初めて見る。きっと静かに、と言った言葉を考慮してくれたのだと信じたい。決して新しい武器が手に入ったから早く試したい、とかじゃないと信じたい。
「違うよばっくん。枢チャンはパチモンでしょ、どう考えても。だって完璧な喰人って骨まで食らうことだし。それに、彼女は目撃されたから喰べてたわけじゃない。これまでの事件を見てすぐにわかったよ。彼女は、目撃されたいから喰べてるんだ。
最初の事件は市内の森林。次が町内の公園で、商店街の裏路地、今回が商店街。ほら、どんどん人目に付くようになってる。見つかりたくないなら拉致って森林で喰べてりゃいいのにわざわざこうしたってことは、つまりそういうことじゃん。まあ最初は前者だったんだろうけど、段々そのスリルが楽しくなって目的が変わっちまったんだろうね」
だから、彼女は獣にも人間にもなりきれない。ただの出来損ないのイキモノ。
言葉を理解する能力はまだ残っているのか、俺の言葉に彼女がひどくイラついたように犬歯を見せてた。どうやらやる気は溢れているらしい。此処で俺かばっくんのどちらかを喰し、残った方は少しの間逃がしてまた人目に付く場所で喰べればいい。考えが手に取るようにわかる。しかし、人生そう甘くないのだよ少女。
それは録画した映像を早送りしたかのような。
まず、少女が俺へと牙を向ける。鋭く尖った犬歯がナイフほどではないが鈍く、緩く、僅かに光る。其処から垂れる涎はほんとう、獣のようではあるが。庇うべきは脳と心臓。それさえあれば大抵は生きていられる。右腕をで牙を止め、肉の裂ける音を聞く。痛みはあまりない。肉を殺いだことにより彼女の気持ちが高揚しつつも通常を取り戻す、その瞬間。古きよき友人は少女の痩せこけた肢体をナイフで一斬り。斬れ味は抜群。ごとり、と落ちたのは足だ。そうして、容易く心臓をひとつき。手際がよい事で。流石は殺し屋さんとでも言うべきか。其処で早送りは終わる。
「――ギ――イイイィィィィ――ッ!」
まるで機械が壊れたかのような悲鳴。いや、咆哮。それが彼女の最後の言葉。世間様にはまったく騒がれない、とあるひとりの少女の、とある獣にもなりきれなかった少女の物語がこれで幕を閉じるのであった。