血竜
「馬鹿力ってのは、何もピンチになったときしか出ないってわけじゃないんだぜ。優等生はその時、馬鹿力を発揮した。いじめ野郎に掴みかかって、床に叩きつけて、上から腹に、思いっきり拳をめり込ませた。咳き込むいじめ野郎を見下ろして、“僕も男だからね、これくらいはできるよ”って言った。かっこいいよなー」
「笑うところか? そこ……」
〈812〉は笑みを浮かべながらも、少々あきれて呟いた。
「我慢の限界に達していた優等生は、今まで力を制限されていた暴力者みたいに、いじめ野郎を殴り続けた。ま、実際制限されてたに等しいんだろうな。痣だらけになって動きの鈍くなったところに、優等生は引き出しからカッターを取り出した。そして」
「刺したのか……?」
「当たり。カッターを持った優等生を見て、いじめ野郎は本気で驚いて、恐怖感を抱いた。そしてありったけの力を足に込めて、外へ出ようとしたんだ。でも、もう優等生じゃなくなった優等生に、背を見せたのが間違いだった。元優等生はカッターを握り締めて、その背中を思いっきり」
凝視していた壁が、突然向こうから叩かれ鈍い音を発した。
「刺した」
「……すぐ死んだのか」
「いや、まさか。いじめ野郎は叫んだ。それがうるさかったんだろうな、元優等生はまた刺した。刺すたびに大きくなっていた声も、だんだん小さくなっていった。いじめ野郎がぐったりして動かなくなったのを見たとき、元優等生は自分が殺人を犯したのを実感した」
「それで、捕まったのか?」
「元優等生はそこで大人しく捕まるようなやつじゃなかった。どんなに隠しても逃げても、いずれ逮捕されることは目に見えていた。だから元優等生は逆に考えた。どうせ捕まると決まっているなら、捕まるまでに憎いやつを殺してしまおう、ってな」
「もう、壊れてたんだな」
「確かに頭は使ってたな。でも犯罪を重ねることで、罪が重くなるということに関しては、すっかり頭から消えていた」
少しかわいそうだ、と〈812〉は思った。一つ小さな能力が欠けているだけで、なりたくもない犯罪者になったのだから。
「で、殺したのか?」
「殺した。なるべく足どりがつかないよう、素早く殺した。夜になりそうだった時間帯を使って、学校に忍び込んでいじめたやつらの住所を知った。ピッキングなんてきれいな手は使ってない。どうせばれることだからな。家に押しかけて、親に顔を見られてもおかまいなしだ。とにかく、信じられないくらいの速さで、元優等生は殺し続けた。ようやく捕まったのは、九人目を殺す直前だった。警官に押さえつけられて、逮捕。そん時の元優等生と言ったら、まるで化け物みたいだったっていうぜ。その後の裁判じゃ、そいつが元優等生だったこと、殺されたやつらがその元優等生をいじめていたやつだと判明したこととかが絡んで、判決は長い間うやむやだ」
ふう、と息を吐き、〈811〉は続けた。
「そいつは未だに、刑務所に突っ込まれてる。面影を完全に失くしてな。自分のことも“俺”と呼んで、女のことばっか考えて、いじめたやつらの誰かに、ほんの少し顔が似ているだけでぶっ殺したくなる衝動に駆られるような、とんでもないやつとして生きている」
〈812〉は、自分が呆然としているのを感じた。だがすぐ口元に笑みを作ると、今度は自分から切り出した。
「なかなかおもしろい話だったよ。お返しに、俺からも話をしてやる」
「お、嬉しいな。俺いっつも話してやる側ばっかだったからよ」
〈812〉は一息つくと、ゆっくりと語りだした。
「あるところに、女と男がいた。お互い小学校からの知り合いだった」
「普通だな」
「これからさ。ある時、男は女に大金を貸した。女の友人が事業を始めるって言うんで、それの援助としてだ」
「なるほど」
「でも、男は援助した金の半分すら、手元に戻ってこなかった。女の友人の事業が失敗したっていうんならまだよかった。その金は女が自分の娯楽のために使い込んでいたんだ。もちろん友人の事業なんてのは嘘っぱちで。謝ってくれたならまだよかった。でも女は、まるで本性をあらわしたかのようにころりと性格を変え、強気になって馬鹿にし始めた。簡単に騙されるのが悪い、長い付き合いだからって言ったって、お人よし過ぎる、って感じにな」
「まあ、確かにそうだが、カチンとはくるわな」
「ああ、男はカチンときた。女の部屋だったんだが、傍にあったスタンドで、女を殴り殺した。今まで裏切りらしい裏切りを知らなかった男は、女の言葉だけでぼろぼろになった。馬鹿正直にも、ずっとその女を心底信用していたのさ。そして濁った男の目には、女の家族まで女と同じように見えてきた。いつか、家族ぐるみで自分を堕とす気だと」
「被害妄想か」
「そんな感じだろうな。調度その日、女の家族は家にいた。男は殺さず、気絶させた。そして、その家を燃やした」
「殺人兼、放火か。手の込んだことやるな」
しばらく、沈黙が降りた。
「……お互い、馬鹿で派手なことやってるんじゃねーか」
「仲良くなれるか?」
「十分だ」
はるか遠くから届いた音のように、〈812〉は金属の扉が閉まるのを聞いた。それが半分眠っていたせいだと気付くと、急速に意識が戻ってきた。規則正しい足音が近づいている。音が消えたので、起き上がって廊下を見るが、そこに足音の主はいなかった。どうやら別の場所の囚人に用があったらしい。
「面会だ」
声はすぐ隣から聞こえた。
「へえ。珍しいじゃねーか」
新たな足音が、響き始めた。堂々としている看守とは違う、少し緊張しているような雰囲気がする。それも、隣まで来て止まった。
「……事は私たちにとっていい方向に向いています。あなたは、ここでは〈811〉だそうね。〈811〉、あなたは近々、刑を受けることになります。今の状況から、そうなることは確実です。今まで生き長らえた運も、ここまでのようですね」
――女か。殺人鬼を目の前にしているためか、声に覇気はない。だが、見下しているのはわかった。
「へえ、刑確定寸前にお目見えとはな。つーかどうしたよその口調。そんなに他人扱いしたいわけ?」
「黙りなさい。人目も構わず殺すような、殺人鬼に言われたくありません」
焦ったように、早口になった。〈811〉にとって、この女はどうやら知り合いらしい。
「あんな……自分のものじゃない血で、服を汚して、それでも構わず殺して……。姿を見ただけで凶悪に見えるような人間は、あなた以外見たことはありません。あんな、血に飢えたような怪物みたいに……!」
「まあいいさ。どうせ執行の場にも来るんだろ? そんときに言いたいこと言わせてもらうさ」
女はしばらく動かなかった。二つの足音が少しずつ小さくなるのを聞いて、〈812〉はできるだけ柵から顔をのぞかせ、後姿を見た。老年に差し掛かったように見える女だった。
「もう俺に味方なんていないのさ。たとえ肉親でもな」
ベッドにどさりと倒れこむ音が聞こえた。薄い壁に背を預け、〈812〉は薄汚れた床を凝視していた。
「おーい、冥王」
「冥王? 何だそれ」
いつものノックと共に、〈811〉は〈812〉を冥王と呼んだ。
「お前のあだ名だよ。俺にさっぱりつけてくれねえから、俺が先につけた」