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血竜

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 前から噂には聞いていたが、やはり番号で呼ばれるのは嫌な感じだ。この刑務所に入ってから、名が〈812〉になった彼は、もやもやした気分で廊下を歩いていた。いまだ手錠は外されず、脇には看守付きの状態で。
「お前の部屋はあそこだ。一番端のな」
 伏せがちだった顔を、〈812〉は上げた。自分の右手側の奥に、空っぽの牢獄があった。上部についたプレートには812と書かれていた。そうか、入ったときにつけられる番号の名は、部屋の番号と同じなのか、と〈812〉は思った。
「向かいのやつはいないからな。話し相手は隣か……。ああ、おい〈811〉。今日からのお隣さんだ」
 隣の〈811〉は、柵に背をあずけ、顔は見えなかった。看守の声に、面倒そうに顔を見せた。無造作に伸びた髪のせいで、顔の上半分がほとんど隠れていたが、そこから覗いた鋭い眼光は、明らかに看守を捉えていた。
「ったく……。毎回顔あわせるたびににらまなくてもいいだろう」
 看守が焦りを隠すように頬をかくと、〈811〉はうって変わって楽しそうな笑みを浮かべた。
「あんたのその困ったような態度がおもしれーのよ。あんたが新入りか。よっぽどのことをしたんだろうが、何した? 女襲って殺しまくったか? それとも女じゃなくて野郎か?」
 そこまで言うと、〈811〉は大声で笑いたいのを押し込めたように、喉で笑った。呆然となった〈812〉に、看守は深いため息のあと、告げた。
「こいつはこういう話が好きなんだ。ほとんど冗談だからあまり気にするなよ」
「ほとんど、ってところがミソだな。たまに冗談じゃないときもあるから気をつけろよ」
〈811〉はまた笑った。これも冗談だろうか。
「顔、よく見せろよ。話し相手とはいえ、どっちかが死に行くまで見れないんだからよ」
「……! 〈812〉、こいつには近づく……」
 指で、こちらに来るようにというしぐさを見て、〈812〉は一歩進んだ。それを看守が制しようとしたが、〈811〉のほうが一足早かった。柵の間から素早く伸びた腕が、〈812〉の腹の辺りのシャツを掴み、柵に押し付けた。あまりの力強さに〈812〉の膝はすぐに折れた。
 柵に叩きつけられた痛みで、〈812〉は一瞬目を閉じたが、すぐに開いた。感じたことのない気配が、すぐ前にあったからだ。見ると牢獄の〈811〉がもう片方の腕を振り上げ、その指を立てていた。まるで何かを引き裂こうとするかのように。
「〈811〉、やめろ!」
 何かを思い切り叩く音の直後、〈812〉は解放された。今までシャツを掴んでいた腕が、手首に赤い跡を残して、引っ込んでいった。
「いい加減治らないのか、それは」
「治してほしいんだったら、女の囚人一晩貸せよ」
 笑って言うので、これも冗談だろう。
「さあ、お前の部屋だ」
 手錠を外し、看守は〈812〉を牢獄へと入れた。扉の閉まる音が、長い廊下と高い天井にこだました。


「おーい、お隣さん」
 しばらくして、部屋を仕切っている壁がこつん、と二度鳴った。随分と薄い壁だ。
「何です?」
「お前さ、ここのならわしって知ってるか?」
「は?」
 知っているわけがない。
「知らないか。看守が教えるわけないしな」
 小さく笑って、〈811〉は続けた。
「ここでは、俺たちに名はない。数字の羅列だけだ。そして名を教えあってはいけない。変な規則作りやがる。それでな、名前教えちゃいけないっていうんなら、あだ名をつけようってことになってるんだ。俺はまだあだ名はない。でもここに来て三年は経ってる。なんでだかわかるか?」
「いや……」
〈812〉は、少し考えをめぐらせたが、それらしい理由は思い浮かばなかった。もっとも、深く考えれば出てきたのだろうが。
「じゃあ種明かしだ。俺は裁判だの何だのでずっとここにいるが、他のやつらはなぜかさっさと刑が決まっちまう。ここからすぐいなくなるんだから、もちろん死刑だ。それであだ名を決め合う暇もないってわけよ。多分今回も、あんたが先にいなくなっちまうんだろうなあ」
 最後は笑いを含んだ声だった。しかし〈812〉は、そこにかすかな諦めのような、悲しみのような感情を感じた。
「気の毒だな、あんた。まるで……」
 言おうとして、〈812〉は口をふさいだ。気に障ると思ったのだ。しかしそんな〈812〉を見ていたかのように、〈811〉は勝手に続きを作った。
「死神みたい、だろ? 看守にはそう呼ばれてる。だから俺は公式のあだ名とは認めてない。なあ、あんたよ」
 声が少し大きくなった。今まで虚空に喋っていたのを、壁に向けなおしたのだろう。〈812〉は反射的に「何だ?」と聞き返していた。
「あだ名、つけてくれ」
「わかったよ」
 まるでガキをあやしてるみたいな口調だな、と〈812〉は思った。


「さーて、あんた暇だろ?」
 ベッドに横になっていた〈812〉は、壁から聞こえてきた隣人の声に、目を開けた。
「ああ、暇だから寝ようと思ってた」
「夜でもねーのに寝ると、生活リズム崩れちまうぞ。ここは俺が一つ、話をしてやる」
「話?」
〈812〉は半身を起こした。彼は人の話を聞くのが好きだった。たとえ与太話でも、怪談話でも。
「じゃ、いくぜ。ある殺人者の話だ」
「ほお」
 相手には見えないのに、〈812〉はつい身を乗り出していた。
「数年前、ある場所にある男がいた。かなりの優等生で、将来有望な学生だった」
「そういうやつに限って、何かある」
「当たりだ。そいつはあんまり頭がいいもんで、クラスの男子によくいじめられてた。そいつはその時は何も言わず、言ってやりたいことは全部心ん中に押し込んでいたんだ」
「まあ、大抵がそうだな」
 こいつが、いじめてた側なんだろう。〈812〉は考えを巡らせた。
「いじめに耐えられるやつは、心が広い。そしてその心に詰め込んだ嫌なことを、自然と消化できるんだ。でもそいつには広い心はあっても、消化能力がなかった。嫌なことを溢れさせるきっかけをつくったのは、いじめてるやつの一人だった」
「何をしたんだ? 優等生は」
 ここからがおもしろいとでも言うように、壁の向こうの〈811〉は鼻で笑い、続けた。
「いじめ野郎の一人が、優等生の家に来たんだ。そいつは家に親がいないのを知ってて、勝手に二階の優等生の部屋まで上がりこんできた。部屋を見て、また新たにいじめのネタでも見つけてやろうと思ったんだろう。優等生はもちろん抵抗した。でもよ、優等生ってのは力が弱いって、大体決まってる。その優等生も例外じゃなく、あっさりぶっ倒されちまった。そこに調子に乗ったいじめ野郎が、結構ひどい罵声を浴びせたんだ。そんなにへなへなで、お前女なんじゃねえの? とか、こんなに整理されてて、気味がわりいとか。それで、プツンときたわけだ」
「整理されてたってのは、部屋がか?」
「そう。優等生が誇れることの一つだった。それをけなされたんだ」
 そう言った〈811〉の声はそれまでと違い陽気ではなく、いたわるような色があった。しかし、それも続きの言葉には既に含まれていなかった。
作品名:血竜 作家名:透水