贈り物
「西郷伯がおられるのは、あちらの棟です」
角を曲がりながら言った中山は、そこに当の人物の姿を認めて硬直した。
国民協会会頭で、維新の元勲の一人で、実は大政治家だという西郷従道伯爵は、大柄な身体に寝巻きを巻きつけ丹前を羽織り、どこから持ってきたのか、一抱えもある桶と小ぶりの柄杓を手に、何故かのんびりと、庭木に水をやっていた。
唖然とした中山へ、相変わらずの茫洋とした顔を向けた従道は、「おはようございもす」と言ってにっこり笑った。
「これは、お妨げをいたしまして」
上ずった声で言うと、従道はまだ柄杓に入っていたらしい水を、足元の薄紫の撫子の花にそっとかけた。
「何の妨げな」
「いやその………あ、佐野さん。西郷伯爵です」
思わず間抜けな紹介をしてしまった中山だったが、恐らく、佐野の耳には入らなかっただろう。傍らを見やると、佐野は髭を震わせ、涙をぼろぼろこぼしている。
「佐野さん」
佐野は掠れた声で「南洲先生」と言った。
その声が届いたとは思えないが、従道はわずかに真面目な表情になり、ゆっくりと中山たちの方に歩いてきた。大柄な身体に似合わず、ずいぶんと静かに歩く人だ、と中山は場違いな感想を覚えた。
従道は二人の前に立つと、元内務大臣とは思えない衒いのなさで、ぺこりと頭を下げた。
「西郷従道でごあす」
顔を上げ、太いのんびりした声で名乗った。そういえば、昨日名前を問われたが結局答えなかったな、と思い出した中山は、深々とお辞儀をし、
「申し遅れましたが、明和新聞記者、中山と申します」
と言った。従道は頬笑む。
「もうちっと遅う来らるっと思うておいもした」
「いえ、その、庭を散歩しておりまして。早朝よりお妨げして誠に申し訳ございません」
伯爵は、謝罪など気にした風もない。
「よか庭じゃ。山も見えっで」
山形盆地の西、穏やかな山容を見せる面白山(つらしろやま)を眺めやりながら言った。
「あいが「おもしろやま」ごあすか」
「あの、「つらしろやま」と言います、閣下。白っぽく見えるので」
「つらしろやま、ちうか。なるほど」
西郷伯爵は、感心した様子で頷いた。
名にし負う「なるほど大臣」の「なるほど」を間近で聞ける機会などそうはないだろう、と中山は内心思う。
「こちらはわたしの先輩で、佐野記者です。先ほど、鶴岡から参りました」
自己紹介をするどころではない様子で咽(むせ)んでいる佐野を、中山は紹介した。
「そや、こげんとこまでご苦労様でごあした」
従道は再びぺこりと頭を下げる。
「佐野記者は、戊辰の戦のあと鹿児島へ行きまして、南洲様に教えを受けました。閣下が鶴岡に入られたときには取材に出ておりましたので、ご遺徳を慕ってここまで追って参りました次第です」
六十を過ぎた老人が、挨拶の言葉さえも口に出来ずに咽び泣いているのを、伯爵は果たしてどう見ているだろうと思いつつ、中山はそう事情を説明した。
「南洲様には、庄内の皆が心から感謝しております」
従道はぱちぱちと瞬きをしながら佐野を見ていたが、ややあってしみじみとした口調で呟いた。
「………あいがてこっで」
あいがて―――ありがたい、だろうか。
従道は中山の背を軽く叩いた。
「朝餉ば頼むで、ちっと上がいやんせ」