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深川ひろみ
深川ひろみ
novelistID. 14507
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贈り物

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 現在は山形県の一部となっている庄内地方―――旧庄内藩は、東北には珍しい、西郷隆盛びいきの藩である。それは、戊辰の戦では旧幕府方で戦って「賊軍」とされた庄内藩に対して、隆盛が行った戦後処理による。
 徳川幕府の時代、庄内藩は、酒井氏居城、鶴岡城を中心に栄えた。
 松平家と並ぶ譜代大名筆頭格の酒井氏は、領民をよく保護してその信頼を得ると同時に、家臣団を良くまとめて結束の強い藩を作り上げた。幕府支配の下では、様々な政治的な理由により領主の転封はしばしば行われたが、庄内藩はこれを経験しなかった。経験しなかった、というより、持ち上がった酒井氏の転封計画を、領民が命がけで江戸に駆けつけて中止を幕府に直訴、最終的に幕命を撤回させたのである。領民が領主の転封を直訴によって阻止するなどということは、もちろん前代未聞の出来事であったし、そもそも江戸行き直訴は本来死罪である。
 幕末の戊辰の戦では一貫して徳川幕府方に立ち、最後まで藩内に新政府軍を一歩も入れない勇猛さを見せた。衆寡敵せず、最終的には降伏を受け入れたものの、一度も決定的な敗北を喫することがなかったのがこの庄内藩である。
 それでも敗軍の将となったために酒井氏はついに一時、長く治めた庄内藩から他へ移されたのだが、不屈の家臣団や地主、商人は金をかき集めて新政府に献金し、酒井家の自藩への呼び返しを認めさせた。
 「戻ってきた」といっても、戊辰の戦当時の庄内藩主、酒井忠篤(ただずみ)は、わずか十五歳の若者ではあったがさすがに謹慎となっており、弟忠宝(ただみち)が跡を引き継いだ。明治二年、早々に謹慎を解かれた忠篤はその後、兵部省に出仕するなどして新政府で働き、明治十三年、再び弟から家督を譲られて酒井家当主に復した。そして当主となるや早々に東京を去って鶴岡へ戻り、激動の時代の中でも揺るがずに酒井家を支持し続けた、庄内の人々の信頼に応えた。
 上下一心、驚くべき団結力を終始一貫して保ち続けた藩であったといえる。中山は元農民、佐野は元武士だが、共に酒井の殿様―――現在の酒井伯爵への尊崇の念は篤い。
 庄内藩は、そういう藩である。



 そして新政府に抵抗し「賊軍」とされたこの藩に好感を持ち、当の庄内藩も驚く寛典に処したのが、西郷従道の十六歳年長の実兄、今は亡き西郷南洲隆盛であった。
 戦後、謹慎を解かれた酒井忠篤は明治三年、自ら家臣と共に鹿児島へ礼を述べに出向いている。その後も庄内藩として隆盛の下へ留学生まで送り込んで親しく教えを請い、その聞き書きを『南洲翁遺訓』の形でまとめて出版までしていた。かの西南の役でも、西郷軍に加わった藩士も多かったというほどの隆盛びいきなのである。
 西郷従道は、西南の役において、隆盛たちを鎮圧する側に回った。実の弟でありながら、政府の一員として隆盛を滅ぼした従道に対し、郷里鹿児島の評価は微妙だ。隆盛の十三回忌まで、生まれ故郷に足を踏み入れることさえ出来なかったのである。だが、庄内は隆盛を敬慕する一方で、亡兄の風貌を受け継いだ弟をも歓迎した。



 その理由もまた、佐野に言わせれば、
「酒井の殿様がいらっしゃるからだ」
ということである。
 酒井忠篤は、隆盛の斡旋でドイツに長く留学もした開明的な人物だ。隆盛を尊敬し、藩の恩人として並々ならぬ感謝をする一方で、兄を賊軍として討たざるを得なかった従道の立場もよく理解し、穏やかな親愛と敬意を示し続けている。
「西郷伯も、それがよく判っておいでだからこそ、鶴岡に入るとまず殿を訪問されて礼をお示しになった。だから庄内人も政争やら民権やらはさておき、西郷伯ご自身に悪い感情は持たん」
 確かに従道は、鶴岡に入ると真っ先に酒井忠篤を訪ねた。その行動といい、昨夜見せた目敏さといい、よく考えるとかなり鋭い面も持ち合わせているようである。さすがに「元勲」だけのことはある。
「………実は、中々の政治家だということでしょうか」
「君、まだまだ全く判っておらんなあ」
 佐野は大きな手のひらで、中山の背をバン、と叩いた。
「ナカナカなんてもんじゃない。今の内閣の連中や民党の奴らなど足元にも及ばない大政治家だよ」
作品名:贈り物 作家名:深川ひろみ