贈り物
中山が厠に立ったのは、夜九時頃だった。
廊下を渡っていると、鈴虫の声が聴こえてきた。九月ともなれば、北のこの地にはそろそろ本格的に秋である。夏の延長という気分でいると、日が落ちてから寒い思いをすることになる。
中山はついでに部屋に戻り、米沢の小さな呉服屋に嫁いだ姉が、就職祝いにとわざわざ送ってくれた袷(あわせ)を羽織った。一行はこのまま山形盆地を南下して山形を通り、米沢へと入ることになっている。少しでも姉の顔を見られないだろうか、などと考えながら宴会場の前まで来ると、丁度厠から戻ってきたらしい従道が、角を曲がって戻ってくるところだった。
出入りの邪魔をしないよう、手前で少し待っていると、何を思ったのか、会頭は宴会場の前を通りすぎ、大柄な身体を揺すってのしのしと近づいてきた。
緊張する中山を、黒々と大きい、吸い込まれそうな目でじっと見つめて、のんびりとした口調で話しかけてきた。
「よかもんば着ておいやすな」
「これですか」
中山は袷を軽くつまんだ。
「米沢織といって、この辺りのもんです。米沢の呉服屋に嫁いだ姉が仕立ててくれました」
今着てきたのに、と中山は内心思う。ぼうっとした印象のこの伯爵は案外に目敏いらしい。
「そや、よか姉(あね)さまじゃ」
従道はにっこりと笑った。
「名前ば、何ちな」
「松子です」
変わったことを尋ねるものだ、と思いながら中山が答えると、従道は目をぱちぱちさせた。
「お前(まん)さあん名じゃ」
「はっ?」
中山が思わず間抜けな声をあげると、伯爵は子供のような笑みを丸い顔に湛えた。
「そん顔で松子さあち、深川ん芸者かち思うた」
「は?」
ポカンとするのは二度目である。
意味が判らず呆然としていると、従道は何か言葉を続けようとした。
「西郷先生」
障子を開き、中から恰幅のよい地元の有力者と新聞記者が出てきた。
「こんなところにおいででしたか」
「さ、さ、戻って戻って」
口々に促され、従道はほんの少し逡巡する風だったが、ぽんと大きな手のひらを中山の肩に置いた。
「明日、皆が発ってからおいん部屋ば来てたもはんか」
「は………はい」
答えると、従道は中山の肩をポンポンと叩き、のそりとした足取りで宴会場へ向かった。
突然の出来事に、中山はぼうっと元内務大臣伯爵、維新の元勲、今は政治結社の会頭の巨大な背を見送る。
皆が発ってから。
そう言ったところを見ると、あの会頭は明日の演説会に列席する気は初めからないらしい。