贈り物
【3 山に抱かれて】
水のごとき国民協会会頭は、「ちっとそこら辺ば散歩して来もす」と宿の人間に言い残し、中山と佐野を連れてぶらりと宿を出た。
仮にも政治結社の会頭で、元内務大臣伯爵が無防備すぎると、中山は慌てて佐野に耳打ちしたが、元武士の先輩記者は「まあ君、いいじゃないか」と笑うばかりだった。
肚を括り、さすがに先輩記者ももう起き出している時間だろうと、中山が部屋に断りに戻ろうとすると、従道は中山を引きとめ、若い女中に向かって言った。
「滝さあ。ここな中山さあは、会頭ん用でちっと出かけたち伝えちくいやんせ」
名を呼ばれた女中は真っ赤になり―――名前を覚えられていると思わなかったのだろう―――、「はい、はいっ」と言って何度も頭を下げる。この伯爵は、女中にぺこりとお辞儀までして、歩き始めた。
従道は素足に下駄履きである。涼しげな麻の薄鉄色の羽織を着て、朝の空気の中、下駄を履いてゆるゆると歩く達磨の姿が、粋なような滑稽なような不思議な雰囲気がある。
旅館の前は、なだらかに傾斜した街道になっている。「山寺街道」と名づけられたこの道を登ってゆけば、徳川時代に松尾芭蕉が「閑けさや 岩にしみ入る蝉の声」と詠んだことで知られる宝珠山立石寺、通称「山寺」に辿り着くが、一〇キロ近く登る必要がある。演説会には最初から出る気のないこの会頭でも、さすがにそこまで行くつもりではないのだろう。しかも下駄履きである。
山寺街道を少し下ると、羽州街道という古くからの街道に出る。徳川幕府の時代の「五街道」の一つに奥羽街道があるが、奥州街道が東京日本橋を発し、福島県桑折(こおり)から仙台・盛岡など比較的浜沿いを通り、青森へ至るのに対し、羽州街道は桑折から内陸へ分岐し、山形、そしてここ天童などを経て日本海へ出て、秋田へといたる。
従道は、羽州街道を北へ足を向けた。行く先には、三百メートルに満たない小さな山、舞鶴山がある。
「閣下」
佐野は従道に声をかけた。
「どちらへ行かれますか」
従道は「んー」と喉の奥で唸り、夏らしい濃い緑に覆われ、こんもりと見えている舞鶴山を仰いで言った。
「腹ごなしに、あん山でん登りもんそか」
「いいですなあ」
佐野は嬉しそうに答える。
「中山君、君も一度は愛宕神社によく参って、この地を眺めておいた方がいい。何せ戊辰の戦のとき、この地一帯を焼き払ったのは庄内藩だ。戦の常とはいえ、非道なことではあった」
「………はい」
舞鶴山は天童藩の藩庁が置かれていたところでもある。戊辰の戦で、一帯の総鎮守社である愛宕神社は残ったが、藩の陣屋は全て焼失した。
中山が生まれたのは、戊辰の戦の最中である。自身の記憶には勿論ないし、中山の家は農民で、男手が少なかったこともあって庄内藩が養成した農兵隊にも加わっておらず、周囲に戦争の経験者は少ない。そういえばそんな話もあった、という程度の認識でしかない。
歯切れの悪い返事に、佐野はちょっと睨むような顔をした。
「前から一度言おうと思っておったが、君はもう少し足元をしっかりと見たほうがいい。今時の記者連中はそこが全く足りん。政治も文学も結構だが、自分を作ったこの土地が、どんな記憶を持っているか、それを忘れてはいかんよ」
「はい」
何もこの伯爵の前で、そんな説教をすることはないではないか。
すっかり社内に戻ったような顔で言い諭す佐野に、中山が居心地悪く答えると、従道はその様子をどこか楽しげに見て言った。
「庄内兵ば、わっぜ強かったち。藩士も、農兵も強かった。今、名古屋で師団長ばしとっ桂さあが長州ん兵ば指揮しておったが、攻め入ろうとしたらそやもう散々に蹴散らされて、ようよう新庄へ逃げ帰ったち聞いとっ」
桂太郎は長州出身の陸軍軍人である。組織作りに長け、昨年までは陸軍大臣大山巌の下で陸軍次官をしていたが、その辞任と共に名古屋の師団長に転出した。この桂はつい昨年、着任三ヵ月後に発生し、七千人を超える死者を出した尾張濃尾大地震の際には、県知事や市長に諮らず独断で軍を各地へ派遣して混乱の収拾に当たり、措置の迅速さを愛知県知事初め、各方面から賞賛されている。
「藩士も農民も、上下一心、勇猛果敢―――あげな藩は中々あいもはん。兄は、酒井伯爵も、庄内藩の人たちも、ほんごつ尊敬しとった。………ほんごつ、羨ましかほどじゃち」
「酒井さまは、南洲様ほどの大人物は他にいないと、常々そう仰せです。南洲様あっての、今の庄内だと」
従道はしばらく黙って歩みを進め、ややあってポツリと言った。
「………あいがたか(有り難い)」
朝の爽やかな風が、中山の頬を撫でた。
「あいがたかのう」
染み入るような声に、中山は、全てをふわりと愛嬌に包んだようなこの伯爵の別の一面に、わずかながら触れたような気がした。