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茅山道士 かんざし2

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 スタスタと歩いていた青飛は立ち止まって、手を差し出した。それは右手である。麟もゆっくりと右手をその手に触れさせた。しっかりとはいかないが、お互いに握手して、「けっして、忘れませんよ、青飛殿。」 と、いう麟の言葉を聞いてから、青麒麟は手を離した。ふたりは、それからしばらく桃園の中を歩いて回った。どこも見事な花が咲いている。風が吹けばホロホロと静かに花びらが散って、薄紅の雪のように舞う。音のない静寂な世界をふたりの足音だけが耳に届く。まるで夢のようだと、若い道士は足を止めて、その光景を目に焼き付けた。こんな美しい風景ばかりを愛でていれば、おそらく仙人のような澄み切った心になれるのだろうな、と麟も感じるのだが、とても自分には、この時間の止まったような場所に停滞していられる自信がない。この桃園を夢と感じるものにとって、ここは楽園でしかないのだ。人界のガサガサとざわつく様子や生活の匂いは、ここでは感じられない。ふと、街市の露店で売っている揚げ菓子の匂いを思い出して、懐かしくなった。あの世界が自分の存在する世界なのだと思うと、麟は無性に帰りたくなった。所詮、自分は人間なのだとクスクスと笑ってしまった。
 いきなり、隣りで若い道士が笑い出したので、びっくりして青麒麟は何事かと尋ねた。若い道士は、今、自分が感じたことを、すっかり話して、「修行が足りませんね、私は……まだまだ、未練たっぷりです。」 と、再度、微笑んだ。
 そんな麟の様子に青飛も微笑した。ああ、これが人間の姿なのだな、と麟の笑顔を見て感じた。麟は別に仙界で霞みを食べていたのではないのだが、ふと、そういう生活感溢れるお菓子を思い出した自分を笑っているのだ。コロコロと笑って、子犬のようなやつだな、と青麒麟がからかった。その言葉に、麟は微笑んだまま、『わんわん』と子犬の鳴き真似をして、さらに笑い出した。おかしなやつだと、青麒麟のほうも大笑いしてしまった。
 ふたりは、ひとしきり笑いの波にもまれた。やっと、落ち着くと、青飛が、「そろそろ戻らないと、心配するだろう。」 と、麒麟の姿に変化して、麟を背に乗せた。今度も猛スピードで駆けて、あっという間に西王母の館の側まで戻ってしまった。麟が半日かけてトロトロと歩いていた距離は麒麟や仙人たちにとっては、実に短いものである。館から少し離れた場所へ青麒麟は、ゆっくりと麟を地面に降ろして人型に戻った。
「ここからなら歩いて、すぐだ。悪いが俺は、ここで別れる……館に顔を出すと、また角端兄に殴られそうだから。」
 そう言って、青飛は館の方向を指し示した。ちゃんと、そこには道がある。
「お世話になりました。」
「元気で旅を続けろよ、麟。」
 それだけを言うと、青麒麟はスタスタと館とは逆の方向に歩き始めた。麟が、その後ろ姿を、しばし見送って、自分も館へと向きを変えた。





 館に辿り着くと、上元夫人が回廊から声をかけた。青竜王が暇乞いに来た時に、青麒麟に後を頼んだと言っていたのに、帰って来た麟は、ひとりである。
「青麒麟が一緒だったのではありませんか。」
「はい、すぐそこまで送っていただいたのですが…」
 麟が、そこで言葉を濁すと、上元夫人はコロコロと笑って、「黒麒麟が怖いのですね。」 と、答えを先に出してしまった。
「さあ、お入りなさい。疲れたでしょう。甘いものでもいかがですか。」
 上元夫人が回廊に置かれた陶器製の椅子を麟に勧め、自ら奥へ入って、甘い香りの香片茶と月餅を持って来た。お茶を飲み、ひと心地つくと、麟のほうから、そろそろ帰して欲しいのだが、母上からお許しをもらう方法はないものかと相談した。その質問に、かの仙女は頭をかかえた。今も、西王母に言上してきたところだったのだが、仙界の女主人は許可を下ろす気がない様子だった。いくらなんでも2週間過ぎて、まだ、傷がどうだと理由をつけるのは無茶な話である。現に、この若い道士は体力も徐々にではあるが回復している。難があるなら、右手の傷だけであろう。しかし、右手が完全に治るのを待っていたら、それこそ一ケ月以上かかってしまうだろう。「私くしも、折々、お願いしているのですけど、あなたの母上は、まだ、その傷が治らないからと、それを理由に許可されないのですよ。」
 ふと、困ったように、溜め息をついた上元夫人は、心配そうな麟を見て、ニコリと笑った。麟の心が手にとるように分かる。兄弟子のもとを黙って離れてしまったので、こんな長期間に渡っては心配しているだろうと気が気でないのだ。
「大丈夫ですよ、麟。本当に、そろそろ戻らなくてはね。」
 ちょっと考えて麟は、少しだけ右手の痛みを和らげる薬というのはないものかと尋ねた。おそらく、コップはもてるだろう。それに肩から上に右手を上げることもできる。問題なのは、印を結ぶだけである。九字を切るだけでも、右手で左手を抑えなければならない。つまり、右手を、しっかりと握らなければならないのだ。麟は右手の痛みを、ある程度抑えられれば、無理してでも曲げられるようにおもう。だから、仙界のあらゆる薬の中に、そういう薬はないのかと上元夫人に尋ねたのである。自称母上に出された命題を話して、自分の考えも口にして、上元夫人に助けを求めた。母上を騙すようで心苦しいと麟が苦笑すると、上元夫人は頭を横に振った。
「元はと言えば、あなたの母上のわがままですもの。それぐらいは構わないでしょう。痛み止めの薬のほうは、私に心当たりがありますが、その時だけですよ。人界に降りて、痛んでも知りませんからね。」
「はい、お願い致します。」
 ペコリと麟が頭を下げた。ひとりだけ悪者だと、上元夫人はおかしかった。皆、帰したくないと騒いでいるというのに、自分はその帰る手伝いをしている。他のものが見たら、なんと薄情なことだと文句を言うだろうが、上元夫人とて帰さなくていいのなら手元に置きたいと感じている。しかし、麟は人間であり、ある人物の夢の結晶である。その結晶をより輝かせてやるには、麟という結晶は人界で磨かなくてはならないのだ。上元夫人は我を通すより、そのことを優先して考えた。自称母親の西王母とて、きっと同じだろう。麟が懇願すれば、決して拒むことはできない筈である。ただ、心から麟の身体を心配するあまりに過保護になっているだけである。
「おまえの母上も、おまえのことを心配しているのですからね。それは心に留めておいてください。」
 ゆっくりとお茶を継ぎ足しながら、静かに仙女は麟に言い渡した。西王母のこまやかな心遣いを感じている麟は、その言葉に深く感じ入った。上元夫人の援助も嬉しいが、その上元夫人の母上に対する言葉にも感謝の言葉を贈りたい。だれもかれも皆が、麟のことを大切に想っているからで意地悪をしているのではない。だから、この目の前の仙女も、騙す相手の心情をちゃんと考えて、麟に申し渡すのである。短く了承の意を唱えて麟は、のんびりとした庭を眺めた。この景色とも、すぐにお別れである。


作品名:茅山道士 かんざし2 作家名:篠義