茅山道士 かんざし2
麟の生まれた村では、麒麟が子供を乗せて運んでくれる夢を見ると、その子供は家族に幸福をもたらすとされ、『麒麟送子』と呼ばれていた。それは、西母王には理解できる。なにせ、仙人が徳を失うことなく転生したのであるから、徳はそのまま生まれ変わった麟のものとなる。『麒麟送子』でないはずがない。
「父親は、大層喜んで、生まれた私に麟と名付け、次に生まれた近くの家の娘を許嫁に決めて、その子に麒妃と字名をつけました。本当に私が生まれてから、家が富んだそうです。」
麟は生まれた時から、ずっと家に閉じ込められた。外に出て、厄災に遭ってしまわないように、外出は父か兄が共にでなければならなかった。
「ただ、小さい頃から、麒妃が毎日、遊びに来てくれました。将来、一緒になるのだと聞かされて育ちましたが、私にとって麒妃は友人であり兄弟であり恋人でした。私は、ずっと館の内にとどめられて、外で同じ年の子供と会うこともありませんでしたので…」
「窮屈ですね。」
かわいそうにと西王母が、同情したが、麟は軽く笑ってと、頭を振った。
「いいえ、お母さん。小さい頃から、ずっとでしたから…そういうものだと思っていました。それに…麒妃がおりましたし…」
そこで、麟はふと黙ってしまった。麒妃のことを思い出して、悲しくなってしまった。それほどに大切に想っていた相手を、自分の不注意で失ってしまった痛みというのは、どんなに時を経ても和らぐものではない。自称母上も、麟の様子を見守るように歩調を会わせている。黙って麟が歩いていく。歩調は急ぎ気味で、しかし、それを西王母は楽に合わせている。最後に、麟のほうが息が切れてしまった。
「まだまだ、身体が元通りでもないのに、無理するからですよ。少し、待っていなさい。」
西王母は座り込んだ麟に声をかけて、ふわりと空に浮かんで館のほうへ飛んでいってしまった。自称母上は麟に合わせて歩いていてくれたのである。仙人っていいなあ、と麟が母親の飛び去った空をぼんやりと見ていた。たかだか、小一時間ばかり歩いて疲れてしまうとは、自分で自分が情けない。ふと、自分の足をさすってみると、以前より細くなっている。二週間近く、床に伏していたのだから、当然である。麟は、ゆっくりと右手を持ち上げてみる。鈍い痛みを伴いながらも肩までは上げられる。そこから上に、さらに右手を伸ばす。今度はズキズキと痛みが増し、右手を頭まで持ち上げたところで激痛が走った。だが、これならば自称母上の出した条件のひとつは乗り越えた。次に、右手を握ろうとするが、こちらの痛みは針で突いたように痛い。問題は、右手だろうなと、若い道士は自分の右手をじっと見た。厚く巻かれた包帯の下には、手のひらに一文字の傷がついている。そこには、かなり深く大きな傷がある。
ふーっと溜め息をついて、麟は右手を下ろした。時間をかけるしか方法がない。自分の無茶もたいがいだと苦笑しているところへ、自称母親が上元夫人を伴って戻って来た。ふたりは麟の前でふわりと音もなく優雅に草地に足を降ろした。
「いきなり、桃園まで、というのは無茶でございますよ。」
そう言いながら、上元夫人は、麟に冷たいお茶を手渡してくれた。体力の回復を狙ってですよ、と西王母が反論すると、それに対して上元夫人も返した。
「麟は、ずっと床に伏していたのですから、足も身体も弱っております。今日はこのあたりになさいませ。」
上元夫人は、心配そうに麟を見る。やっと起きられるようになったものを、人の足で何十里もある桃園まで連れて行こうなど、どだい無理な話である。仙人ではないのだから、と上元夫人は続けた。「いえ、休んだの、もう少し歩きます。」
上元夫人の心配をよそに、当の道士は立上がり、衣服のよごれを払った。西王母は、少し困ったような微笑を称えて、麟の横に立っている。無理をしているのでは、と心配しているのだが、麟は、そんな母親に軽く笑いかけた。
「大丈夫ですよ、お母さん。もう少し付き合ってくださいね。」
心配そうなふたりと共に道士は歩き始めた。休んだせいで、足のほうはだるくはない。のんびりと一時間ほど、道を進むと遠くに森が見えはじめた。そこで、西王母は足を止めて、麟に声をかけた。「あそこで、ちょうど半分くらいね。今日はこれくらいにしておきなさい。桃園に興味があって? 麟。」
「さしては、ありません。」
「では戻りましょう。上元、麒麟を呼んで来てはくれませんか。」 西王母の命令に、恭しく頭を下げて、上元夫人は一足先に館のほうに戻っていった。麟と西王母が、ゆっくりと戻り始めていると、白麒麟がやって来た。
「策明、麟を館まで乗せてやってください。」
白麒麟が、麟を背にして、思い出したように西王母に話しかけた。「そうそう、九玄様がお探しでございましたよ。」
どうやら、また呼びだしらしい。おやおやと西王母は呆れて、麒麟よりも早く館へ、文字通り飛んで帰った。
白麒麟が麟の部屋を覗くと、黒麒麟が横に付いて字の練習をしている最中であった。しかし、策明はオヤッと驚いた。いつもと違うことを見付けたが、それは麟が左手ではなく右手で筆を握ろうとしていたからである。しかし、筆よりも大きいグラスすら握れぬのに、それは無理な話である。麟が左手で必死に、右手で筆を握らせようと努力している。
「こらこら、麟! そんなことをしたら傷にさわってしまう。いつも通り、左手で練習すればいいじゃないか」
そこで麟は、頭を上げて首を横に振った。左手では筆跡が違うのですと答えた。先程、西王母から『緑青に便りを出して帰りが遅れることを告げておくと良い』と言われたので、早速、手紙をしたためようと思ったが、肝心の手紙を書けないのだ。
「角端。横にいるなら、なぜ止めない?」
「無理と分かればやめる」
側にいた角端は、白麒麟にボソリと言い放った。それはそうだが、無愛想な答えである。麟が、まだ筆を握ろうとしているので、白麒麟は急いで取り上げた。それは、無茶に指を曲げれば手の筋を痛めてしまうのは分かっている。
「麟。手の筋を痛めたら、本当に、一生使い物にならなくなる」
「でも……」
麟は納得しない。せっかく緑青に連絡できるのだ。これを逃がすことはできない。では、私が代筆してあげようと、白麒麟が提案したが、それでは自分が送った便りとは思ってもらえないだろうと却下した。
「それでは、私が直接に兄弟子に言葉を伝えてあげよう。私は、おまえの兄弟子と面識があるから信じてもらえるだろう。どうせ、便りを送るにしたって、誰かが届けるのだ。同じことだろう」
怪我人は、その提案に折れた。確かに、それが一番簡単で確実だと思えたからだ。『勝手をしてすみません。少し帰りが遅れておりますが、心配せずに待っていて下さい。近々、戻ります』。あまり詳しいことは憚られるので、手短な言葉を麟は選んだ。白麒麟は、サラサラとそれを紙にしたためて、麟に確認して部屋を出た。
急ぎではないのだが、どうも兄弟子の様子が気にかかるのである。
人界へ降りるのに、まず麟を助けた場所へ降りた。そこで黒麒麟が麟に与えた杖と、麟の持ち物を集めてやった。
作品名:茅山道士 かんざし2 作家名:篠義