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茅山道士 かんざし2

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「今、大変不毛なことをしていたのでは? 若様。」
「そうだね。白麒麟……休むとしょうか。」
 争っていたふたりは仲良く黒麒麟が去った方向に足を向けた。
 
 翌日、麟は朝から自称母親に衣服の着替えを手伝ってもらっていた。手伝うというよりも、着せ替え人形のように麟は立っているだけで母親が手早く着せているのだ。寝間着から室内服に着替えた麟は椅子に座り、やっと昨日から考えていたことを口にした。
「お母さん、お願いがあります。」
 着せ替えの後始末をしていた西王母は麟を見た。麟のお願いについて大方の予想はついている。
「今日にでも人界へ帰していただけませんか。」
 やはり予想通りのお願いだった。西王母は部屋の片隅に置かれた水差しからグラスを抜き、そこに満々と水を入れて麟の前に置いた。「さあ、麟、この水を右手で飲んでみなさい。それができたらお願いは考えてあげましょう。」
 ゆっくりと麟が右手を伸ばした。右手の包帯はまだ厚く巻かれたままであったが、じわじわとグラスを掴んでゆく。痛みで顔が歪みそうになるが母親が見ているので我慢した。グラスを掴み、持ち上げようとして、グラスは右手からスルリと抜け落ちて床に叩きつけられ、粉々に砕けてしまった。音に驚いた西王母の侍女が飛んで来た。西王母はその後片付けを侍女に頼んで、麟を伴って庭へ出た。
「あのグラスすら握れぬようでは何もできませんよ。まして道士の術を唱えるのに印が結べぬではありませんか。そんなことでは人界に戻すことは認めるわけにいきません。」
 道士は数々の術を使うことができる。しかし、術を行うには両手で複雑な印を結ばなければならないことが多々ある。それを結ぶことで術は成立するのだ。麟には現在、印が結べない。つまり、人間だけでなく志怪の類いにも無力になってしまったのだ。そんな麟を西王母が人界へ簡単に戻すわけがない。
「でも、……兄弟子が心配している筈です。どうかお願いします。お母さん。修行の旅に戻してください。」
「当分、それはお休みです。いいですか? 麟、ここから人界へ帰りたいなら、まず右手が肩よりあがること、ふたつめは右手でグラスが持てること、みっつめは術を行う印が結べること、この三つの条件を満たしたら、すぐに人界へ帰してあげましょう。」
「……わかりました。約束ですよ、お母さん。」
「ええ、約束しますよ。さあ、それでは体力回復に散歩しましょう。少し遠出してみましょうね。」
 西王母はゆっくり外へと歩き出した。庭はどこまでも続いている。麟が自称母親の後からついて黙って後を行く。自分のお願いを徹底的に破られてしまったと思うと、なんとなく話づらくなってしまった。確かに自称母上のおっしゃることは一々もっともなのだ。従うしかない。自分はとんだことをしたものだと、つくづく自分の愚かさを噛み締めていると、西王母がくるりと振り向いて麟と並んだ。「おまえが焦っていることはわかっています。そんなに兄弟子が心配なら手紙を書きなさい。誰かに届けさせてあげましょう。込み入った事情は省いて帰りが遅れると書けばいいでしょう。どうですか。麟。」
「はい、お母さん。そうします。じゃ、早速戻って……」
「いいえ、散歩は続けます。せっかく、麟とふたりでお話する機会ですもの。聞きたいことは山ほどあるのですから。」
「なんでしょう。」
 一体自分に尋ねることというのは、どんなことなのだろうと麟は沈んでいた気持ちから少し緊張した心持ちになった。以前、自称母親が麟に浴びせた質問は、麟にしてみれば耐えられない悲しい過去のものだった。あの時はひどい質問ばかりすると内心腹立たしかったものだ。だが、自分が長江へ身投げしてからのことを話したのは鵬師匠だけだったが、尋ねられることを全て答えたとき安堵感を覚えたのも事実である。何もかも打ち明けてしまったことがかえって気を楽にさせた。
「そう慌てなくてもよいではありませんか。まだまだ桃園までは遠いのですよ。」
 自称母上はすたすたと前を歩き始めた。若い道士は溜め息をひとつついて後に続いた。この母は何を言い出すつもりだろうと、内心穏やかではない。しばらく行くと、西王母は前方を向いたまま、「麟。」と声をかけた。
「麟、仙界でこのまま修行してみませんか。」
 黙したまま付いてくる息子に問いかけた。ハッとして、うつむき加減だった麟は顔をあげた。前に居る自称母親は、立ち止まって真っ直ぐに自分を睨んでいた。
「おまえは以前、上元夫人にも王夫人からも勧められているはずです。それだけの資質を備えていることを自覚しなければいけませんよ。」
 真剣なまなざしが麟の心を打つ。心底残ってほしいと母上は思っておられるのだなと若い道士にはわかった。その誘いに心が動かないことはないのだが、もっと心の奥底で次の世で逢えるだろう許嫁の穏やかに微笑した顔が自分を見守っていることに気付くのだ。それはとても遠い約束ではあるが、もう一度やり直しがきくのなら、今度は二人で一緒に長く暮らしたいと思う。それがこの世の死なせてしまった麒妃に対する償いになるだろうし、また自分の願いでもある。
 若い道士は首を弱く横に振った。どうしても自分は人界での先代の師匠との約束を果たさなければならないと、上元夫人や王夫人に告げたと同じ答えを繰り返した。
「……では、何年かに一度は使いをやりますから、都合の良い折りには母におまえの顔を見せてくれますか。」
 それには道士もコクリと頷いた。
「でも、お母さん。修行の旅の間はお目にかかることはできません。こんなことが次もあれば、兄弟子はそれこそ私を疑うでしょう。私が修行の旅をおろそかに考えていると……」
 何年かかるか当人たちにもわからぬ旅である。これは西王母には寂しかった。
「では、便りはいけませんか。今どこにいるのかだけでも構いませんから。」
 西王母が出した妥協案に少し驚いて麟が笑いかけた。仙界まで人間の力で便りを送ることは到底できないではないかと思ったのだ。「どうやってお届けしましょうか。お母さん。」
 その笑顔の問いかけを、自称母親はいとも簡単に解いてくれた。「簡単です。旅で寄る街市にある城隍廟に麟の名前を書いて手紙を置いて下さい。そうすれば、私の元へ届くように手配しましょう。……でも、あまり長いこと便りをよこさないと、使いを送って受取りに行かせますからね。必ず、出してくださいな。麟。」
 そして、最後に西王母は、「このことは、上元夫人にも王夫人にも内緒ですよ。」 と、付け足して、いたずらそうな眼を輝かせた。 また、ふたりは歩き始め、西王母は、今度は優しく麟に尋ねた。「麟の両親はどんな方なのかしら…確か、長江の岸辺にある村だと言いましたね。」
「はい、両親は、私が末っ子ということもあって、とても大切にしてくれました。母は私を身籠もった時に麒麟が子供を授けてくれる夢を見たそうで、『麒麟送子の子供』だと言っておりました。」
作品名:茅山道士 かんざし2 作家名:篠義