Under the Rose
20.Cry for the Moon(2/2)
その瞬間。
鈍く重い、音にならない音がした。
音というより、沙耶にとっては『衝撃』そのものに近かったそれは、過ぎ去った後も違和感が消えない。
ゆっくりと自らの背後を見やる沙耶。
「――……っ」
呼吸のリズムが乱れ、胸に息が詰まる。
構わず更に視線をずらすと、腰に近い位置に刺さっているナイフが両目でしっかりと確認できた。
肌を貫き、深い位置まで刃を沈ませているその傷口からは、あっという間に多量の血が溢れ出す。
その赤を見た途端、沙耶の視界が大きくぶれた。
異変をきたしたのは視覚だけではない。
周りの音を潰してしまうほどの不快な耳鳴り、そしてぼんやりと機能しなくなっていく思考。
「――」
なにか、音がしていた。
だが、それが何なのかまでかは今の沙耶にはわからない。たいして気にもとめず、はっきりとしない視界で一つの影を探す。
視線を下ろした直後、それは簡単に見つかった。
目の前に倒れている少年――最後の悪あがきとして沙耶の背中にナイフを突き刺した、レンフィールドの姿。
流れる血を浴び、着ている服はその黒さを増し、美しい金髪はその澄んだ色を澱ませている。
「……」
無感情な表情で、死にゆく吸血鬼を見つめる沙耶。そして、思い立ったように自身の背中に突き刺さっていたナイフに手をかけ――
一気に、引き抜いた。
ふさがらない傷口から多量の血が流れ始めたが、そんなことは今更彼女には関係ない。
赤い液体を垂れ流したままで、沙耶は一歩また一歩とレンに近づく。ナイフを両手に持ち、ためらいもなくそれを振り上げた。
生き物に向けての動作とは思えない、いってしまえば残酷さを感じさせる一突き。
直前の沙耶と同じように背中を貫かれても、レンは倒れたまま動かなかった。
「(……ああ)」
そんなレンの最期を確認したあと、やるべき事を終えた沙耶は再び桂のもとへと歩き出した。
本人としてはまっすぐに歩いているつもりなのだが、何故だか足が言うことを聞かない。
力が入らない上、一歩一歩が重いのだ。服が血で濡れ、歩くたびにびちゃびちゃといった湿った音もわずかに聞こえてくる。
「(ああ、駄目だな……目がかすむ)」
彼女がうつろな視線で探しているのは、仲間――そして誰より、愛する人の姿だった。
だが、視界は悪くなる一方。頭部から流れてきた血が目に入ってしまったのか、見えている範囲はほぼゼロに近い。
このまま、完全に失明してしまうのだろうか。
その可能性が頭に浮かんだ途端、沙耶の心がほんのわずかに痛んだ。
もし失明してしまったら、自分はもう何も見ることができない。それ以前に、吸血鬼に失明というのは有り得るのだろうか。
人間の身体であれば、有り得るのかもしれない。
目が見えないなら、見えなくなるのならせめて――せめて、何よりも大事な妹に触れていたい。
肌から伝わる熱を感じていたい。
「姉さん!」
沙耶の心にあった願いに応えるように、満身創痍の沙耶へと迷わず駆け出す桂。
状況を理解するどころか、思考の回転はとうの昔に停止してしまっていた。ただ、身体だけが勝手に動いていた。
「(音……いや、声がする……)」
声がしたと思われる方向へゆっくりと歩み続ける。
二人の距離はそう遠いものではなく、一秒でもはやく姉の身体に触れようと、受け止めようと桂はその手を伸ばした。
その手にはめられている誓いの指輪が、二人の関係の深さを証拠づけるように輝いて――そして、
「――――」
内側からはじけ飛ぶようにして、粉々に砕けた。
指輪がはまっている『はず』の自らの手を見ながら、桂はその場で固まった。
一瞬にしてその表情は青白いものに変わり、何かを言おうとしたのか口はわずかに開いたまま。
そんな桂の目の前で、彼女が求めていたシルエットは静かに崩れ落ちた。
力なく前のめりに倒れた沙耶は、瞳を閉じたまま全く動かない。
血に濡れた長い髪が、床にわずかな赤黒い染みを作っていく。
「沙耶……?」
目を見開いたまま、まるで心が抜け落ちてしまったかのように立ち尽くしている桂と違い、その後方にいた真は幾分冷静だった。
自らが受け止められる限界を超えた事態が続くと、逆に慣れてしまうのかもしれない。
沙耶が倒れた瞬間も、足をもつれさせて転んだのだろうと彼は思っていた。だが、沙耶はいつまで経っても起き上がらない。
それどころか、わずかにも動かない。
今まで刀の力を今まで内に押さえ込んでいたのも、どんなに傷ついた状態でも動きを衰えさせなかったことも
全ては沙耶の生命力が尋常ではないことを示している。
そのため、今回も『命までは』と真は望みにも近い思いを抱いていた。
視界に入ってくる現実を、必死に否定しようと――。
真は傷む傷を押さえながら駆け出し、固まっている桂の横を通り抜けた。
「沙耶、沙耶ってば!」
横たわっている沙耶の上半身を抱き上げ、軽く揺する。
真の両腕を這い上がってくる、嫌な重み。
その重みには覚えがあった。
十年前にも、まったく同じ体勢をとったことがある。あの時も、力なくうつ伏せている身体を抱き上げ、名前を呼んだが返事はなかった。
こちらの気持ちなど知らないままで、静かに眠るようにして倒れていた。はっきりと違うのは、その重みだけ。
「沙耶、やめて……なにか、なにか言って……!」
焦る真に浮かんだのは、先ほどから固まっている桂を呼ぶことだけだった。
一番大切な人の声なら、沙耶も反応を返してくれるかもしれない――そう考えたのだ。
「……けた」
「桂?」
「ゆ、ゆび……指輪が、砕けた……」
ひどく震えた、聞き取るのがやっとの弱々しい声。
「指輪?」
桂に視線をやりながらも、ちらちらと沙耶の方をもうかがう真。沙耶の首元に、首飾りのチェーンがかかっていた。
だが、肝心な部分がない。
彼女はかかさずリングネックレスを首にさげていたが、そのリングの部分がないのだ。
「姉さんとの、誓いの、指輪が……嫌、姉さん……いっちゃ嫌……」
真の声は桂には届いていなかったようで、桂はその表情を絶望の色に染めながら、その場にしゃがみこんだ。
そしてぶつぶつと呟きを繰り返しながら、頭を抱えうつむいてしまう。
「誓いの……」
誓約に用いた指輪。
互いがどのように心変わりしても、二人の間に何があっても、決して離れられないようにと交わされる『誓約』。
それを交わす際に用いられた装身具は、いかなる時もその持ち主を離れずに心をも縛り付ける。
二つの例外を除いて、それはついの時まで外されることはない。
一つは、誓いを互いの同意のもとに破棄する場合。
そして残る一つは、どちらかが命を落とした場合。
どれだけ深い誓いをかわしても、一方がもう一方を生きたまま黄泉まで連れて行くことはできない。
どちらかが死ぬことで誓約の天秤が傾いたその時、誓約に用いた装身具は砕け散る。
「駄目、駄目、駄目なの……ごめんなさい、ごめんなさい、姉さん、許して、謝るから……」
「……」
「お願い、私を一人にしないで……っ」
作品名:Under the Rose 作家名:桜沢 小鈴