Under the Rose
15. ある男の話.1(1/2)
「おはよう、真くん。足はどう? 動く?」
おはよう、と言ってはいるものの、すでに時計の針は四時を指している。
おそらく沙耶の挨拶は、朝の訪れではなく今まで意識を落とし眠っていた真の目覚めに対してのものなのだろう。
「んー」
言われるがままに、足をぱたぱたと上下に動かす真。
それは問題一つなく、驚くほどすんなりと反応を見せた。どうやら、真の身体に起きていた異常は一時的なものだったらしい。
「よかったね」
「元気になったのなら、いつまでも図々しく居座らないで出ていって欲しいのだけれど?」
真からして死角になる位置から、桂が自らの不機嫌さをもてあますようにして姿を見せた。
しっかりと腕を組み、上半身だけを起こしている真を厳しいまなざしで見下ろしている。
「まだ昼間じゃないの! こんな中を帰れだなんて鬼だわぁ悪魔だわぁ」
「……」
呆れ果てて返す言葉もないのか、口を開くそぶりすらない桂。
そんな桂の手を引いて、沙耶はそばに置いていた黒い肩がけ鞄をもう一方の手に取った。
「真くん、ちょっと桂と野暮用をすませてくるから。夜までに帰ってこないようであれば、扉そのままにして帰っても構わないからね」
外に出てほどなくすると、辺りは鮮やかな夕暮れから一転、一面を覆うような闇の中へとうっすらと沈み始めた。
逢魔ヶ刻。
近づく黄昏に人間はその姿を少しずつ飲まれ、完全に世界が夜を受け入れる頃には完全に埋もれてしまう。
そして、それと時を同じくして、漆黒にも似た夜の世界で生きるものたちがその息を吹き返す。
二つの世界が交代すべく近づき交じり合う時、それが今の時間だった。
「……」
歩く足を乱さないまま、沙耶は意識をある一点に集中させていた。
五感や第六感が感じる違和感、思考の内をゆっくりと走る焼け付くような痛み。
何かが自分達を見ている。
そして、接触する機会をずっと狙っている。
「桂、」
隣にいる妹へ注意をうながそうとしたその時を見計らったようにして、その気配はぴたりと止んだ。
同時に背後から聞こえてくる幼い声。
「お姉さん、お姉さん」
「……?」
服を軽く引っ張られ、振り向く桂。
そこには、美しい金髪を隠すようにして黒い帽子をかぶっている少年の姿。
だが、桂の記憶の中にその姿と該当する存在は見当たらず、ただきょとんとした表情を浮かべることしかできなかった。
「あ、やっぱりそうだ。……覚えてないかな? こないだお姉さんに道を聞いたんだけど」
「ああ、そういえば」
「だよね。あの時はありがとう……って、隣のお姉さんは何で僕をそんなに睨んだりするのかな?」
「馴れ馴れしく近寄ってくる吸血鬼は、今までまともだった試しがないからね」
「……」
「それに、どこかその顔は覚えがある気がする……君、名前は?」
姿こそいかにも無害といった少年だが、身体にまとわせている強い気配は吸血鬼特有のものだった。
それは自然に表に出てしまうものらしく、どれだけの実力を持っていても完全に消すことは難しい。
ただ理由もなく辺りを徘徊しているはぐれ者とは違う少年のいでたちに、必要以上に沙耶は警戒を強めずにはいられなかった。
そんな沙耶を見て、くすりと笑う少年。
桂の服を掴んでいた手を離し、一歩、二歩と後ろへテンポよく下がる。
そしてかぶっている帽子のつばを軽く掴み、二人へ向かって深く頭を下げた。
「では、改めて。僕の――いや、私の名前はレンフィールド」
「レンフィールド?」
「呼びにくいようであればレンで構わないよ。常に異国から異国へ流れ続ける我々には、名前なんて特に意味を持たないものだろう?」
「……話があって来たのなら、早く言いなさい」
「挨拶をしておこうと思って、ね。この国には一人配下を連れて来てるんだけど、もう会ったかな? 髪を後ろへ流した長身で無愛想な男だ。すぐ分かるよ」
「長身の? ああ、真と対峙してたあの男ね」
「ああ、そういえば私の配下も『真』という名を口にしてたな……それならば、一つ言っておく事がある」
「何かな」
「これ以上真という吸血鬼に関わるのなら、君たち二人にも相応のおもてなしをしなければならない」
「……」
「やれやれ。おとなしく、小夜啼鳥の一員としてはぐれ者を追いかけていればよかったものを。直接の関係はなくとも、上司としては本来処罰を与えるべき対象だよ、君たち二人は」
「話はそれだけかい?」
「それだけだよ」
「そうかい」
淡々とやりとりを繰り返す一方的な会話は、その終わりすらあっさりしていた。名乗った時と同様にお辞儀をした後、くるりと二人に背を向け歩き出すレン。
残された二人の視界の中で、小さな背中があっという間に遠くなる。
「……レンフィールド」
嫌な風が吹く中で、ぽつりと桂はその名を呟いた。
作品名:Under the Rose 作家名:桜沢 小鈴