Under the Rose
10.5.Daydream(6/8)
「ふっふふんふ〜ん」
どこかで聞いたようなメロディーを口ずさみながら、わずかな雪が舞う中を歩く一つのシルエット。
片手には花束、残る手には紙袋。
着込んでいる赤いダッフルコートはよく見るとあまり似合っていないのだが、そんなことは本人には関係ないらしい。
英人と出会ってから、真はあまり路地裏を出歩かなくなった。
というよりも、意識して本人がそういった道を避けていた。生き物の気配がほとんどない、冷たい風だけが吹き抜ける狭い空間。
嫌でも過去あったことを思い出してしまう。
終わりがないと絶望していた当時を、鮮明に思い出してしまう。
「あの子たち、元気にしてるのかしら……」
記憶に新しいのは、対照的な双子の姉妹。
自らが逃げ出したあと二人がどうなったかはわからないが、直前はなにやら人間達に追い詰められているように見えた。
彼女らも何かしら表立って生きられない事情を抱えていたのだろうか。
今もこの街のどこかにいるのだろうか。
――生きて、いるのだろうか。
「……」
『離せッ!! 汚い手で触るな、その目をこちらに向けるなぁっ!!』
『あはっ、あはは……そう思うなら逃げてごらんなさいよ、ほら、ほらっ!』
あの夜のこと。
忘れているはずがない。はっきりと覚えている。覚えているが、その時の自分は何かが狂っていた気がする。
それでも、嫌がり抵抗するあの人間の血を吸ったのは、他の誰でもない自分の意思だ。
自分自身がそうしたいと思ったから、なによりも望んだから無理矢理行動に移したのだ。
最初からそういう約束であったし、悪いことをしたという意識も後悔もない。
自分の意思が半分。
残る半分は、本能的な何か。
それが背中を押すようにして、自分を突き動かしたのだ。
遅れて駆けつけた人間が、こちらに対して敵意――いや、明らかな怒りと殺意を向けた時、自分はどうしようもない快感を感じた。
「そう、私って人間じゃないのよねぇ……」
立ち止まり、流した視線の先。
時間も遅く閉じてしまった店のガラスに、自らの姿が映り込んでいた。
腕は二本、指は五本ずつ。足はまっすぐに二本伸びていて、何の特徴もない普通の靴をはいている。
通行人が見ても、よもや人間以外の何かだとは思わないだろう。
そして、過去に自分が何をしてきたかも――どんな毎日を送ってきたのかも、わからないだろう。
いいのだろうか。
こうして日々、人間の中に埋もれていく。
そうやって限りなく人間に近い存在になっても、自分は吸血鬼でしかないのだ。
身体は『人間の生き血を吸いたい』と夜な夜な訴えつづけるというのに。
そして、あの時のような快感を求めているというのに。
毎日、ぬるま湯につかるような暮らしでいいのだろうか。
「……わからない」
手にしたぬるい幸せを手放したくないという思いと、日々その思いを圧迫し押しやろうとする本能との間で。
真は揺れていた。
「たっだいまぁ!」
勢いよく扉を開ける真。はやる気持ちをおさえながら靴を脱ぎ、室内へと足を踏み入れる。
「じゃっじゃーん! お兄ちゃんがいいもの買ってきて……あれ?」
両手に物を持ったまま勢いよく腕を広げたところで、真は部屋が真っ暗なことに気付いた。
夜もそれなりに更けている。
英人が外に出るような時間ではないが、かといって寝てしまうにはまだまだ早い。
真の嬉しそうな声にも返事はない。
「……」
なんとなく、嫌な予感がした。
部屋にただよっている空気は、普通のそれとは明らかに違っていたのだ。
真は部屋の電気を点けようかためらった後、伸ばした手を自分の方へ戻した。
点けてしまえば、部屋の全てが明らかになる。
そうすれば、嫌でも全てが自分の目に映ってしまう。
真っ暗な部屋の中を、一歩、また一歩とおそるおそる進む。
「え、わっ!?」
その時、何かが真の足に当たった。
当たった衝撃でころころと転がっていくそれは瓶だった。蓋も閉められていない、空っぽの薬瓶。
真の中にあった嫌なものが、その大きさを増す。
やがて転がっていた瓶も自然に止まり、触れるようにして何かにぶつかった。
「ひ……英人?」
手。
人間の手がそこにあった。
手、腕――そして肩と、身体のラインにそって少しずつ真の視線が動いていく。
見覚えのある黒髪。
ぐったりとうつぶせになり、真がその身体をゆさぶっても全く反応しない。
そばにあったテーブルにはごく少量の水が残されたコップが一つ、そして積み重なるように複数の薬の包装シート。
そのほとんどは空だったが、一番上にあったものだけは薬が残っていた。
意識を失う直前に飲もうとしていたのか、倒れている英人のそばにはシートから取り出された薬がいくつか落ちている。
「――――」
名前を呼んだはずが、それは声にならなかった。
身体中の力が抜け、手に持っていた紙袋と花束はそのまま床に落ちる。
目にたまった涙が落ちる前に、英人を抱き起こして引き寄せた。
重く冷たい上に、胸に顔を寄せても心臓の音はまったく聞こえなかった。
作品名:Under the Rose 作家名:桜沢 小鈴