Under the Rose
10.5.Daydream(4/8)
なんとなく。
そう、なんとなくだった。
理由はと問われれば、思い当たるのはその一言しかなかった。
別に特別な理由があったわけでもない。
「……」
黙って出ていったあの日から、その部屋はなんら変わりなかった。
中に人がいるのかいないのかは微妙なところだが、無用心なことに扉には鍵がかかっていない。
やがて、扉の閉まる音に気付いたのかゆっくりと近づいてくる足音。
「おかえりなさい。腕、治りましたか?」
相変わらずの、感情も暖かみもない淡々とした声。
容姿もほとんど変わっていない。変わったとすれば、夏が近いためにわりと薄着なことと
出会った当初と比べ少し髪が伸びたことか。
「……ただいま」
今の真に返せるのは、その一言だけだった。
その後も、何も告げずにふらりと出ていっては、また何の前触れもなく英人のもとへ帰って来るといった日々が続いた。
最初は長かったその間隔も、回数を重ねるにつれだんだんと短くなっていく。
一ヶ月、一週間、三日――――果ては毎晩。
吸血鬼は夜が訪れるたびに青年のもとを訪れ、青年もそれをどこか嬉しそうな様子で受け入れた。
何一つ強制しないそのあり方が、世間に適応できない二人にとってはたまらなく心地よかったのだ。
いつしか、英人は真のことを「兄さん」と呼び慕いはじめるようになる。
距離が縮まるにつれ、真はうすうす気付いていた。
英人が求めているのは、無意識に見ているのは自分ではなく英人自身の記憶の中にある兄である『真』の姿。
そして、自分を置いて消えた兄の代わりとなる存在。
だが、そのことが確信に変わっても真は英人のもとを離れなかった。状況は今まで苦しんできたものと
なんら変わりないはずなのに、不思議と嫌な気がしなかったのだ。
それどころか、いつしか英人が本当に自分の弟である気さえしていた。
きっと、弟を失えば自分はまた駄目になる。
そして、それは相手にとっても同じことだった。
「髪、長くて邪魔じゃないですか?」
「……今まで意識したことなかったけど、まぁ」
「じゃあ切っちゃいましょうよ」
「え……」
「大丈夫です。結構慣れてますから、僕」
これほど長い期間、真が一人の人間と関わり続けたことは今までになかった。
特別何かをするわけでもなく、変化がないといってしまえばそれまでの毎日だったが――
誰かと時間や出来事を共有できるというのは、真にとって何よりも幸せなことだった。
少しずつ。
そんな毎日が、孤独に蝕まれていた吸血鬼の心を少しずつ氷解していった。
夏。
「陽が出てる時間が長いから嫌い」と部屋の隅でふてくされる真を見て、笑みをもらす英人。
それに気付くなり、地団駄を踏みわめき出す真に昔の暗い面影はなかった。
冬。
街に降り積もっていく白い雪。
どんなに距離が縮まろうとも話せない『最後の秘め事』を抱えたまま、二人は違う方向を見つめていた。
何もかもを覆っていた白は解け、また緑が芽吹き、その葉は一つずつ落ちて、また雪が降り始める。
季節は止まることなく巡り、いつしか数年が経過した。
作品名:Under the Rose 作家名:桜沢 小鈴