Under the Rose
10.5.Daydream(1/8)
――走っていた。
ただひたすらに。
絶えず痛む左腕を押さえながら、どこまでも走っていた。
「は、あっ……」
何度目かも知らない角を曲がった直後、足がもつれてしまいそのまま前へと転倒する。
「……っ」
漏れる声が激しい息切れによるものなのか、それとも身体中に走る激痛のせいなのか。
そのことを判断する余裕さえ、今の真は持ち合わせていなかった。
沙耶の持つ刀に斬られた傷は、数時間経過した今でも癒えることなく焼け付くような独特の痛みを訴えていた。
直後と比べやわらいではいるが、それでも軽い痛みと言うにはほど遠い。
この痛みには、覚えがあった。
「(昔、太陽の光を浴びた時もこんな痛みだった気がする)」
抜群に優れた治癒能力を持つ吸血鬼にも、唯一の弱点が存在する。
太陽光。
浴びると、まずその光に直接当たっている部分が焼けはじめる。
赤黒く変色していくと同時に、それは肌の上を走るように広がっていく。
焼けてしまった部分は長時間痛みが残り、治癒にもかなりの時間を要する。
つまり、まともに浴び続けていたなら治癒が追いつくより全身が焼け焦げる方がはるかに早い。
この痛みに、それは限りなく似ていた。
ああ、自分は死ぬのかもしれない、と真はふと思った。
もう一歩も動ける気がしない。一秒でも早くこの痛みから解放されたいが、それ以前に意識がぼんやりとしてきた。
いつも自分が身を置いていた夜の闇は、この時だけはどうしようもないほどに冷たく、そして刺々しい。
まさかあの姉妹にここまで追い詰められるとは思わなかった。
たかが傷一つここまで響くとは思わなかった。
そして――死というものが、こんなにもあっけなく訪れるものなのかと驚いた。
桂が自らの心の中に侵入してきた時、全身に強い恐怖を感じた。
今まで生きてきた長い時間の中で、誰一人として『自分』を見てくれた者はいなかったのだ。
相手にとって、自分の姿は愛した恋人であったり、幼くして死んだ孫であったり、都合よくつくられた理想の存在であったり。
全てが幻でしかなかった。自分に向けてくれた暖かいものの全ては、自分ではなくその向こうにある幻に向けられていた。
そんな時、はじめて本当の姿を見てくれる人間に出会った。
嬉しいと同時に怖かった。
心の底に秘めた、本当のことを知られてしまうことが怖かった。それを知って、相手に拒絶されることが怖かった。
何より――
孤独に満ちた記憶を引っ張りだすことで、ありのままの自分自身と向き合う事が嫌だった。
もうすぐ朝が来る。
朝が来れば、全てが終わる。絶望的な状況でありながら、気分は不思議と安らいできていた。
「(心のどこかで、こうした終わりを望んでいたのかもしれない)」
左腕の傷や桂に記憶を覗かれたことは、結果真の背中を押すことになった。
だが、そういった真の思いとは裏腹に、本人の身体は諦めることをしなかった。
力の入らない左腕の分まで、右腕が動き――必死に立ち上がろうとする。
「(……)」
まるで、身体と心が離れてしまったようだと思いながら、ぼんやりとその光景を見つめる真。
ひざを伸ばし立ち上がる段階までいったものの、直後には積み木の山が崩れるようにして前のめりに倒れた。
受け身すら取れなかったにも関わらず、痛みはまったく感じなかった。
作品名:Under the Rose 作家名:桜沢 小鈴