Under the Rose
03.鷹と蛇/その1(4/4)
「嫌よ」
一瞬、場の空気が凍りつく。
「嫌、ですって? ここまできて拒否権があると思ってるの?」
「私はわざわざ話すようなことなんてないわ。それに、話したらはいさよならってわけじゃないんでしょ」
「えっ?」
「どうせ、私を狭くて暗いところに閉じ込めるんでしょ。そんなの嫌よ」
「そんな事私には関係ないわ!」
返事を待たずに、桂は相手の喉もとに突きつけていたナイフを振った。
持つ手に力を込め振ったその刃先は吸血鬼の首元へと、
「……っ」
入らなかった。
吸血鬼は自分へと向けられた刃を片手で握るようにして受け止めている。
黒い手袋ごしに真っ赤な血が染み出していくが、それを気にする様子はない。
桂が期待していた沙耶の一撃も入ることはなかった。
「……うぅ」
吸血鬼を押さえ込もうと動きかけた沙耶の眼前には小さいものの鋭利な投擲ナイフが向けられている。
あと一歩踏み込んでいたら、それは間違いなく沙耶の両目に突き刺さっていた。
「まったく、血の気の多いことね」
「……化け物め」
思い切り握っているだけあって、吸血鬼の手から流れる血は止まることを知らない。
「あなた達、何か勘違いしているようだけど……私は何もしていないわ」
吸血鬼の言葉には、段々怒りにも似たものが混じりだす。
「……!?」
途端、桂の視界がほんの一瞬ではあるが揺れた。ぐらりと何か強い力で引っ張られるかのように。
「(しまった、さっき気を許したせいで……)」
「私は何もしてないの、してないのよ……してない……」
まるで自分自身に言い聞かせているような呟きのあと、吸血鬼は再び桂の瞳を見つめた。
先ほど自分を侵食していた黒い何かが、再び内へと流れゆく。
今度こそは飲み込まれまいと、桂の口元は必死に次の言葉を探す。
「……わかったわ。その言葉、今のところは信じておきましょう」
「そう」
視線はそのままで、自分を取り囲んでいたどす黒いものだけが波のように引いた。
桂は向けていたナイフを戻し、吸血鬼も掴んでいたその手を離す。
「貴方、いつもこの辺りにいるのかしら?」
「そうね、大抵は」
「それが分かればいいわ。けれど、ああいう無礼な振る舞いはお止し」
「……でも、まんざらじゃなかったみたいね」
「今度やったらその両の目を潰すわよ」
「あらあら、こわぁい」
くすくすと微笑みながら、大げさにおどけてみせる。
それを見て憤怒の表情を浮かべている桂を、気付いた沙耶が慌てて制止した。
「お、お互いそんなに睨みあわないでよ……あっ、そういえばお兄さんの名前聞いてなかったね」
「こんな無礼者の名前なんてどうせ大したものじゃないでしょ」
話題を変え、気をそらそうとした沙耶の頑張りは一瞬でへし折られてしまったかのように見えた。
が、吸血鬼はその問いかけをちゃんと受け止めていたらしく、対して反応を見せる。
「……」
「うん?」
「……まこと」
「まこと?」
「そう……真」
呟く声は、どこか上の空。
おそらく本当の名前ではないのだろう。だが、二人は別段気にも止めない。
二人は名前が大して意味を持たないものだということを誰よりもよく知っている。
「ん、真くんね。じゃあ桂ちゃん帰ろっか」
「……ええ」
肩を並べて遠ざかる二人を、吸血鬼は別段どうということもなくぼんやりと見つめる。
ある程度歩き、距離が開いたところで沙耶がくるりと振り返った。
「じゃあねー真くーん!」
「……チッ、忌々しい」
元気よくぶんぶんと手を振る沙耶とは対照的に、舌打ちとともに一言吐き捨てる桂。
吸血鬼は軽く驚くようなそぶりをしたあとわずかに微笑んで
「ふふっ。元気な子も、そこの仏頂面の子も……またね」
二人には聞こえないくらいの小さな声で、別れを惜しんだ。
開いた口の隙間から、獲物を前にした獣が見せるような、飢えた牙をあらわにしながら。
――吸血鬼は、二人との別れを心から惜しんだ。
作品名:Under the Rose 作家名:桜沢 小鈴