小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

珈琲日和 その10

INDEX|2ページ/3ページ|

次のページ前のページ
 

 彼女は耳を塞いで蹲ってしまいました。何枚にも重ねられたチュールみたいな白いスカートがふんわりと煙草の吸い殻や不可解な滲みがついている汚い地べたに被さっています。肩にかかる甘い香りのする髪の毛に初夏っぽくフレンチスリーブの袖をした水色のトップスにカーディガンを羽織り、バレリーナのような透けるように純白のスカートを身に纏った、こんな打ち捨てられた侘しい臭いの漂う廃墟にまるで場違いな彼女。これじゃあまるで僕が虐めているみたいじゃないか。彼女はどうして不意にこんな所に来てみたいと言い出したのか。わかりませんでした。
「ねえ、君、雨に濡れるの嫌なんだろ?」
「好きな人なんていないわ」
「僕は好きだよ」
「私達合わないのよ」
「・・・結局それを言いたいの? だからこんな所に連れてきたの?」
 彼女はなにも答えませんでした。ただ、足下に転がっていた小石を拾って力なく投げたのです。このままこんな所にいても埒があかないと思った僕は彼女を無理矢理立たせて手を引っ張って歩き始めました。
 しばらくすると彼女がぽつりと呟いたのです。
「・・・ごめん」
「いつもの事だ。でも、君が言うようにやっぱり僕じゃダメなのかもしれないな」
 握っている彼女の手が微かに震えて体温が下がっていくように感じました。徐々に重さを増している不吉ささえ感じられる汚れたモノクロの空はそれでもまだ持ち堪えていました。
「・・・私、雨が怖いわ」
「どうして?」
「・・・怖いの。濡れたくないの。それだけよ」
 いつもの事ながら彼女の断片的な言葉の紡ぎ方を理解するのは骨が折れる。僕に余裕があればいいが、時々その言い方にイラッとさえするのだ。なにを言いたいのか全くわからない。彼女は大手会社の秘書の仕事をしているとても賢い女性だったのです。でもだからこそ、余計に気になるのかもしれません。或いは僕にはそこまでの難解理解力や想像力なんかが欠けているのかもしれません。きっとそうだと思います。けれど、本を読んでいるのならともかく誰かと話しているのにそんな謎掛けみたいな会話をするなんて疲れるのは事実です。いいじゃないか。普通に言いたい事を言えばと思ってしまうのです。僕はデリカシーがないのでしょうか?
 風が吹いて来て僕の雑に切られた前髪を無造作にかき回しました。その風につられて後ろを振り向くと、手を引かれてとぼとぼ付いてくる叱られた子どものような彼女は俯いていてモノクロの空気に染まり、今にも泣き出しそうです。いや、左頰の傷跡で誤摩化されてはいましたがもう涙が頰を伝っていたのかもしれません。耳元で反射するピアスが鏡のように僕の目を刺すのがうっとおしくて、僕は又1つため息をつき曇天の空を仰ぎました。泣かないでくれよ。

 それから幾日後の夜、いきなり彼女が僕の家に訊ねてきて一通の手紙を差し出しながらこう言ったのです。
「しばらく離れましょう」
「いいけど。しばらくってどのくらい?」
「2年とか3年とか」
「遠距離並だな。それで、なにかを試すつもり?」
「わからない。でもそのぐらい離れていたらお互いになにか落ち着くかと思って」
 確かに彼女の言わんとしている事はなんとなくわかるが、しかし僕にとってはどうだろう? 僕は特になにも変わってなんかいないのだから。時間を置いた所で僕の中でなにかが落ち着くなんて思えない。そもそも僕は落ち着いている筈なんだから。
「君は落ち着くかもしれない。だけど、僕はその間なにもないという保証は出来かねるよ」
 彼女は僕を見つめ、少し黙っていたがやがて乾いた唇を僅かに開いて言った。
「その時はその時。仕方ないわ」
「・・・そう」
 僕はそれ以上はなにも言わずに彼女の差し出す薄っぺらな手紙を受け取りました。
「色々と忙しい時なのにごめんね」
「君が決めた事なら、僕にはなにも言えない」
 ふと彼女は射るような不機嫌そうな視線で僕を見つめてきました。僕はなにか悪い事を言ったのだろうか? 考えている間に彼女はさっさと扉を閉めて出て行ってしまいました。
 僕は手紙の封を開けました。一枚の薄い便せんに書かれていたのはただ1行。
   『ごめんなさい。私、あなたといるのが疲れたの』
 そしてプラチナのピアスが転がり落ちてきたのです。これは僕が誕生日プレゼントに無理してあげたものでした。水銀のような丸いピアスが滑らかに転がっていくのをぼんやり見つめて思いました。そうだった。僕も疲れたのです。彼女に振り回される事にも、彼女を理解しようと努めるのもそして、気持ちを否定されるのにも。それがわかっていたからこそ、僕は敢えて彼女を引き止めなかったのかもしれません。
 そしてそのまま彼女からの連絡がないまま8年の歳月が過ぎ去り、僕はその間に違う女性と結婚して離婚し、また違う色々な女性とお付き合いをして別れてきました。
 彼女の事もすっかり心の奥底に埋もれてしまって思い出す事もあまりなかったのです。けれど、こうしてピアスを前にするとなんと鮮やかに浮かぶ事でしょう。錆びる事のない艶やかなプラチナのように、まるで彼女が今にも現れそうな予感までしてしまうのです。
 気付かない程静かに雨が降り出した音でふと我に返った僕は、そのピアスを大切に半紙に包んでしまい、仕入れて来た豆を保存袋に選り分けて麻袋に移し、Cassandra Wilsonをかけました。こうして考えていても所詮は過ぎさった事、なにもかも昔の事なのだ。


「なぁ、マスターは一人になってからどのくらい経ったんだ?」
 雨の降りしきる湿気った午後、のんびりとカフェオレとミックスサンドイッチを食べていたシゲさんが競馬新聞から目を離さずに何気なく聞いてきました。
「さぁ。どのくらい経ったんでしょうかね。1年は経ってるとは思いますけど、どうしたんですか? いきなり」
「いやなに、うちのお節介なかかぁがな、憖結婚相談所なんかに勤め始めやがったからな、良い人がいなきゃ紹介してやるからってうるせーんだわ。そんな事言われたってもなぁ、マスターは女にゃ困っちゃいないだろうが?」
「いやいや。僕はモテませんよ。それに女性付き合いがあまり上手くないので・・・」
「っかぁー!モテないなんて言ってる奴ぁ、俺の経験上女が放っておかねーのよ。そんな事言ったってよ、誰か、いるんだろっ?」
「そうですねぇ・・・・・・いなくもないですが」
 無意識に僕は数日前に発見したプラチナのピアスの事を思い浮かべていました。シゲさんは新聞を脇にどけて目を輝かせ面白そうににやっと笑いました。
「ほらな。やっぱりな」
「はぁ・・・けれど、もう昔の事ですから」
「なに? 昔の女かよっ。案外マスターも純だったんか?」
「いや、ホラ。なんて言うか、なんとなく ですから・・・」
 そう言ってしどろもどろになってしまった僕をシゲさんは諭すように言いました。
「いいじゃないの。いいじゃないの。その相手に会いてーんだろ?」
作品名:珈琲日和 その10 作家名:ぬゑ