珈琲日和 その10
会いたい。そうなのかもしれない。けれど、こんなに歳月が経っているのに今更なんだかおこがましくはないだろうか? 僕が色々な人と色々な経験を重ねてきたように彼女もまた同じなのだし、何より彼女はもう僕の事なんか忘れているだろう。僕もつい最近まで忘れていたのだから。それをふと鮮明に思い出したくらいであの時の想いまでが炙り出されるなんて事があるのだろうか。
「そうかもしれません。でも、どうだかわかりません」
誤摩化すように笑う僕に、シゲさんはうんうんと納得したように頷き、人それぞれ色々あるからなぁーと言い、残りのサンドイッチに手を伸ばしました。
また雨か・・・僕は足早に家までの道のりを急いでいました。
今朝は珍しく早めに目が覚めたので、いつもより早めに家を出て馴染みの店で朝食を食べようとしたのはいいのですが注文しようとした時に財布を忘れてしまった事に気付き、慌てて取りに帰ってきたのです。財布がなければ買い出しも出来ない僕にしては珍しい事です。
ぼんやりと不注意になっているのかもしれない。気をつけないといけません。そう考えている傍から、いつもは通らない道に踏み込んでいる事に気付き、はっとしましたがこの道を通っても、家に辿り着く事は出来るので構わずそのまま進みました。なにしろ薄い墨汁を吸っていく綿のような雲が霞色の空一面に投げ散らかされて、小雨まで降ってきていたので、一刻も早く帰らないとズブ濡れになってしまいそうだったのです。
坂になった急な階段を息を切らせて登っていく両側には古びた住宅が立ち並び、その中でもひと際時代を感じさせる家の前で思わず足を止めてしまいました。
階段からは木や草が茂り放題になった中庭が僅かに覗けました。そこに黒い着物を着た女性が小雨に濡れて佇んでいました。藍染めのように斑さが残る濃い色をした空を見上げる後ろ姿しか見えませんが、薄い色をした髪の毛を鼈甲の簪で無造作に纏め、後ろの襟ぐりから垰やかに伸びる白いうなじに後れ毛が纏わり付いています。濃い緑の臭いが煙草の煙のように流れてきました。
あの女性は・・・
思い出そうとした僕の顔にいきなり雨混じりの強い風が吹き付けたのです。思わず目を瞑り、そして再び目を開けるともうそこに女性の姿はありませんでした。ただずぶ濡れになった僕が情けなく立っているだけでした。夢でも見たのか? 時計を見ると、かなり時間が経ってしまったらしく急がないと開店時間に間に合わない時間でした。僕は走り出しました。
それから数日後の夕方でした。相変らず天気は曖昧な小雨で、梅雨が近付いているようでした。店内がやけに薄暗く感じたので、僕は予備のランタンとランプを出して、灯りを増やしているところでした。羽衣のような透けるように白いショールを巻いてサングラスをかけた和装の女性がヒールを小さく鳴らして入ってきました。小雨なのもあって、珍しく着物にブーツを合わせていらっしゃるのだと思い新鮮な感じがしました。
「いらっしゃいませ」
女性はカウンターの隅の席に腰を掛けました。
「カフェロワイヤルを」
「かしこまりました。少しお待ち下さい」
最近、店内が暗いからかカフェロワイヤルの注文が多いような気がします。僕は途中で放り出したランプを何処ら辺に設置しようかと考えながら、豆を挽き始めました。やはりもう少し壁際に増やすか、それとも天井から下げるか・・・
「お待たせしました」
ショールを外している女性にロワイヤルをお出しして火を点けました。暗度が増していく店内でその炎はまるで小さなオパールが燃えているかのように美しく何度見ても思わず魅入ってしまいます。女性は徐に黒い煙管を取り出し、煙草を詰めてスプーンの上で厳かに燃え続けている火を点け、一筋の煙を吹き出しました。女性のかけているサングラスにはゆらゆらと震えながらも力強く燃える蒼い炎が2つ映っていました。
もしかしたらいつかの女性かもしれないと思いましたが、いかにせ暗い店内でしたのでよく見えず、今の僕の頭は照明の事で一杯だったので設置しかけのランプに戻りました。
四苦八苦してようやく店内が明るくなった頃、満足してカウンターに戻り音楽を変えて洗い物を始めました。Nuovo Cinema Paradisoのサウンドトラックです。こんな湿った柔らかい夕暮れに相応しい。女性が控え目に話してきました。
「この店はもう長いの?」
一番端に座っている女性はサングラスをかけている横顔しか見えませんが、白い肌に整った綺麗な顔かたちをしているのがわかりました。
「そうですね。かれこれ、8年くらいは経ちました」
「そう。もうそんなに経つのね」
「お陰様で」
照明問題が解決した僕は機嫌良く特になにも考えずに答えていました。
「私、最近引っ越してきたばかりなの」
「そうでしたか。いい街ですよ。ここは。残念ながら海はないですけど、美味しいので有名な魚屋さんなんかもありますし、いい店も多いです」
「そうね。よく知ってるわ。その魚屋の美人の看板娘さんが中学生の時から」
「おや。もともとお住まいだったんですか? 帰って来られたと言うところですか?」
「ええ。忘れ物を探しに」
「忘れ物 ですか」
僕のその言葉に女性は徐にサングラスに手をやり、こちらを振り向きながら答えたのです。
「そう。プラチナのピアスよ」
ゆっくりとした動作でサングラスを外し微笑む彼女は、僕の記憶で炙り出された頃よりも遥かに透き通る程綺麗になっていて、顔にかかる色の薄い細い前髪に見え隠れしている左頰には目の下から10センチ程の懐かしい傷痕がありました。
「大切な人から貰ったものなの」
信じられない。目の前で煙管を吸いながら、蝶が葉に止まっている時のように長い睫毛をゆっくり瞬かせて話す彼女に僕は我が目を疑いました。すっとした不思議な香りが煙管の火皿から細くたなびいています。これは夢なのだろうか?
「・・・どうしてそれを忘れてしまったんですか?」
「忘れたわけじゃないわ。ただ取りにこれる自信がなかっただけ。だけど、 もうないかもしれない。時間が 経ち過ぎてしまったから」
彼女はなんと美しくなったのだろうと思いました。以前とは違った静かな落ち着いた雰囲気を感じました。まるで気高く燃えるロワイヤルの蒼い炎のように。頰の古傷の痕でさえも、8年間もの間彼女が積み重ねて磨いてきた心の美しさを際立たせているかのようです。
僕は引き出しから半紙に包んだピアスを取り出して静かに彼女の前に置きました。情けない事に彼女の目を直視する事が僕には出来ませんでした。なにか熱い液体が急激に溜って胸が高まり、上手く言葉が出てきません。なんて事だ。
「ありがとう」
彼女はそのピアスをそっと取り上げると、自分の耳に嵌めました。僕は顔を上げました。あの頃、見栄を貼って初めて無理して買ったプラチナは彼女の耳で髪の毛に見え隠れしながら誇らし気に光っていました。長い時間をかけて、ようやく彼女は戻ってきたのだ。そう思った瞬間、僕の口を言葉が突いて出たのです。
「・・・おかえり」