茅山道士 かんざし1.5
やっと笑いの波が収まって、「はい」と答えた。少々体裁の悪い黒麒麟は憮然として、「さっさと寝ろ!」と言い放ちどっかと椅子に腰を降ろした。
「まだ、眠くありません。」
「勝手にせい。」
近くの部屋からはまだ茶会が続いているらしく王夫人の笑い声やザワザワした雰囲気が伝わってくる。麟がそちらのほうの壁ををぼんやりと眺めていると無口な黒麒麟はぼそりと言った。
「杖は志怪を倒すのには無敵だが、人にはきかん。人間には気をつけることだ。人には善人も悪人もおるからな。……おまえはひとが良すぎる。」
ゆっくりと麟が向きを変え角端に笑いかけた。
「……少しは気をつけんと、生命が幾つあってもたらんぞ。」
「はい。」
黒麒麟は若い道士にとうとうと説教をする。その部屋の前に茶会のメンバーが全員こっそりやって来て扉の前で声をひそめていた。彼等にとっても黒麒麟が長々喋っているのを耳にするのは珍しい。茶会の席にそんな黒麒麟の声が小さく聞こえてきたのだ。皆が寄って来るのはあたりまえである。
「今日は黒麒麟に任せて私くしたちは失礼しましょう。」
西王母が側の者たちに声をかけて自室に引き上げた。王夫人も後を追い、残った二人もその場を静かに離れた。
「黒麒麟の笑い声なんて一生に何度聞けるかな。策明。」
今の珍しい光景が頭を離れない若長は隣を歩く白麒麟に話しかけた。
「そうですね。親しい者なら何年かに一度は聞けるでしょう。いや、何十年に一回かな。我々はもう千年以上一緒ですから、たまにはありますよ。この間までは結構一年単位でしたが…」
そこで白麒麟は一拍おいて、これから五十年間もちょくちょく耳にするだろうと笑いながら続けた。
「確かに。」
その答えに青竜王も頷いた。歩きながら、策明がふと気付いたことを口にした。
「ずっと、水晶宮にお戻りではありませんね。一族の方々はご心配なさいませんか。」
「大丈夫です。長といっても父もまだ健在ですし叔父たちや長老たちが適当にしてくれます。それに何といっても私のすぐ下の紅竜王はしっかりしてましてね。ふらりと私がいなくなっても問題はないのです。」
「それは結構なことです。」
「なにせ、まぬけな若様ですから。」
そこで二人は大笑いして別れた。片方はあてがわれた客室に、片方は引き返した。怪我人の部屋ではまだ角端の声が聞こえた。
「たまに喋ると止まらないものだ。私も麟と話したいのに…」
扉に手をかけようとして策明はやめた。きっと角端は自分が入ると無口に戻ってしまうだろうと思えたからだ。今日は譲ってやろう…でも明日は私が独占してやるからな…扉の向こうに聞こえぬ声で投げ掛けて部屋を離れた。
「麟。帰るといっても、その動かぬ手では服を着ることもできぬだろう。」
人の悪そうに角端は痛いところを突いた。麟も溜め息をついて、そうですねと返した。今のところ右手を持ち上げることも容易ではない。この傷のまま帰れば、それこそ緑青の質問攻めにあうことだろう。
「直してからでよいではないか。」
「でもご迷惑のように思います。母上様はお忙しい方のようですし、私がいるとずっとお世話してくださって余計な時間を取らせているようで申し訳ないのです。」
「それなら、わしがおまえの世話をしてやろう。わしは暇だから大丈夫だ。」
「えっ?」
この偉丈夫の男がかいがいしく自分の服を着替えさせるところを想像して麟は吹き出した。
「何がおかしい。わしとて、その昔おまえより小さな子供の面倒をみたことがある。ちゃんと服ぐらい着せてやる。」
と、黒麒麟も言いながら吹き出した。天界の聖獸と呼ばれる自分が麟の服を着替えさせたり食事を助けてやっている姿を想像してしまったのだ。イタタタ……と呻きながら笑う麟を強引に横にして、「とりあえず今日は休め!」と言って表に出ていってしまった。
「ごめんなさい。角端さん。でも、おかしくって……」
背後ではまだ笑っている大声で叫んでいるがお構いなしに扉を閉めた。表はすっかり暮れて夜になっていた。黒麒麟は回廊をゆっくりと歩いていたが、庭の遠くがほのかに明るいのに目をやった。そこには一頭の白銀の麒麟が立っていた。庭園の花が一陣の風でヒラヒラと舞っている中にポツンと佇む白麒麟は神々しく、まるで一枚の絵画のようだった。白麒麟が回廊にいる黒麒麟の側にゆっくりと近寄って来た。
「もう眠りましたか? 麟は。」
麒麟姿のままで表情は読取り難いが策明は穏やかな声で角端に尋ねた。
「いや、わしが居ると眠らんので出て来た。」
「そりゃ説教されていては眠りたくとも無理でしょう。」
「聞いていたのか? 」
「外まであなたの笑い声が漏れてましたよ。皆さん、大層珍らしがっておられました。でも……私は嬉しいのです。角端はここ二十年程少しも笑いませんでしたね。それなのに麟が来てとても楽しそうだ。私はあの仙人がいなくなって、またあなたが感情というものを忘れてしまったのではと心配していましたから……」
だから麟が存在したことであなたが喜んでいるのは自分にとっても喜ばしいと静かに語りかけた。
「もう、私もあなたも千八百年からを生きてきた。たぶん、あと二百年の時間が残っているばかりです。でも一口に二百年といっても長いもの………これから麟の五十年を、そしてまた次の転生した麟の人生を、ずっと見守ってやることで私たちは少しいい思い出を手にすることができますね。」
角端もそのことは同意する。白麒麟に隠し事は通用しない。千年以上を共に暮らしているのだ。無口無表情として有名な相手の表情を読み取るぐらいのことは簡単である。
「そうだな。」
角端も静かに答えた。麟の寿命は五十年だが、また転生して輪廻の輪をまわる。つまり角端たちは生きている限り麟という一個の魂と触れ合うことができるだ。
「麟の傷が思ったより深手だ。五日過ぎても傷がふさがらん。」
いまいましそうに黒麒麟は呟いた。万能薬竜丹という仙界の薬を飲まさせられているにも関わらず、麟はいまだに笑っただけで傷が痛むのだ。無茶なことをしたものだと角端は付け足した。
「何でも、刺さっていた矢が身体の中でバラバラに折れていて、それを取り出すのに相当傷を広げたそうですからね。たぶん、麟は抵抗したのでしょう。ばかなことを…」
白麒麟は信じられないといったように頭を振った。おとなしくかんざしを渡していれば、矢傷程度二、三日で直ったはずである。それが抵抗したため倍以上の日数をかけなけれぱならない。
「それでも麟は、こんな形で再会したくなかったんでしょうね。あの子のことだ。大切にしていたでしょうに。」
二人は押し黙って庭園を眺めた。そこへ、大声で叫びながら天空から割り込んでくるものがあった。
「策明兄! 角端兄! 麟はどうなったんだ? 」
飽きてどこかへ行ったと思われていた青麒麟であった。とん、と地面に降りると人型になった。どうやら気になって戻って来たようだ。
「青飛、戻って来たのか。」
「仲間はずれは嫌だからね。麟は良くなったのか。策明兄。」
けたたましい声に黒麒麟はむっとして、青麒麟の頭をゴンと強く叩いた。
作品名:茅山道士 かんざし1.5 作家名:篠義