看護師の不思議な体験談 其の十七 『春のホタル』
「杉川さん、Kさんがまた歩き始めたよ。」
「あらら、行きます。」
ナースステーション内の丸椅子に座り、ぼんやりと空中をながめているKさん。知らない場所に来て、何の変化もない毎日。
(このままじゃ、認知症も進行してしまう…。)
「Kさん、眠れませんか?」
「お姉さんはよく見かける人だね。近所なの?」
「そうですね、近所といえば近所ですけど。」
「いいもの見つけたから息子に見せようと思って、探してるんだけど。」
Kさんは、ふうっとため息をついて、しわだらけの手をさすっている。
「Kさん、何を見つけたんですか?私も教えてほしいな。」
Kさんは私を見ると、にやりと笑った。
「しょうがないねぇ。内緒よ、こっちおいで。」
Kさんに手を引かれて、着いたのはKさんのベッド。
「Kさん?」
「しーっ!静かにして見てごらん。」
小声で話すKさんにつられて、こちらも口を閉じる。
(いったい、何見てるんだろう。)
「ほら、ホタルよ。」
(ホ、ホタル…?)
Kさんは、曲がった腰をさらに小さく屈めている。
一緒の目線で探すのだが…、もしかして…。
「見えた?一匹いるでしょう?」
「…はい…」
Kさんの視線の先には、オレンジ色の光が一つ、暗闇の中にぼんやりと浮かんでいる。
それはベッドの頭元にある豆電球だった。
「かわいいなぁ。はよう、息子に見せたい。」
「そうですね…。」
Kさんの表情は、穏やかだが、どこか寂しそうだった。
「今の、うちにできることは、これぐらいしかないからなぁ。」
「Kさん…?」
「何もしてやれんから。」
(Kさん、もしかして…、いや、まさか…。)
その夜は、一緒にオレンジ色のホタルを見ながら過ごした。
動く事のない、オレンジ色のホタルを。
作品名:看護師の不思議な体験談 其の十七 『春のホタル』 作家名:柊 恵二