砂色世界の救命師
なぜだ? 俺は腹を開き、腫瘍を取り除いただけだ。呼吸に関することには何一つ手を出していない。それなのになぜ心臓が止まった?
いまだに、線も音も変化はない。手術のときにさえ出なかった汗が、目にしみた。
「…………」
その汗のせいでぼやけてはいたが、やつが俺の反対側にいて、そして患者に何かを注射しているのが見えた。
「……ユウシ」
どのぐらいたったんだろうか。俺は手の疲労を全く感じていなかった。まるで何か別の部分かのように、腕は心臓マッサージを続けていた。
「もうやめろ。患者は死んだ」
「お前は諦めが早いんだよ! まだ望みは……」
「心臓マッサージを始めて、何分、いや、何十分経ったと思ってる? いくらなんでも、ここまできたらもう蘇生はありえない」
何十分経ったかなんて、俺にはわからなかった。やつが俺の腕を掴んでいなければ、ほぼ機械的に動いていた腕は止まらなかっただろう。
「どうして……心臓が止まったんだろうな」
マスクを取って、俺は大きく息を吐いた。横に垂らした腕に、今頃疲れが伝わってきた。
「この世界の人間は、昔の医者にしか治せない病気に陥ったとき、生きる気力をなくす。この患者は、もう生きたくないと思っていた。その強い感情が、生き長らえさせるという行為に反発したのかもな。人の想いってのは強いもんだ。自身の願いどおりにするために、心臓を止めることを選んだ……っていうのは考えすぎか?」
「科学的根拠がゼロだな」
そう言ってはおいたが、今まで健康そのものだった心臓が、突然機能を停止することに、科学的根拠を見い出すこと自体難しい。そう思うと、やつのいうことが本当のように感じた。
「お前が納得するように言えば、この患者は寿命だったんだ、きっと。そのほうがお前にとってはしっくりくるだろう?」
「まあ、な……」
俺は、この世界の人間に避けられているのだろうか。自分が正しいと思っていても、世の流れに逆らうことは、やはりだめなのか。
俺は、患者の顔に布をかぶせた。なぜか、とても安らかな表情に見えた。
生から開放されたことを、喜んでいるかのように。
「お前は帰るのか」
「ああ。時間がかかったとはいえ、俺の仕事は終わったからな」
俺とやつは、後部の手術室と運転席との間にある、小さなスペースにいた。手術を始める前も入った、着替えの場所だ。
「じゃあ、俺はその辺でもうろうろするか。ああ、お前ん家の近辺には行かないから安心しろ」
顔はちゃんと見ていなかったが、目の端でにらまれたような気がしたのでそう言っておいた。一旦止まっていた、やつの服を着ようとしていた腕が、再び動き出した。
ふと、壁にかけていたやつの上着の中に、何かを見つけた。「これは何だ?」と言って取り上げたら、何なのかわからないうちにすぐ取り上げられるのは目に見えていたので、俺はさりげなく近づいて、口を開いた。
「スラナ、そういえばお前、俺が心臓マッサージしているときに、患者に何か注射してたろ」
「……いや、何もしてないが?」
「その間が怪しいな。何をした」
にらんでやったら、少しの間、困ったような嫌そうな顔で見返していたが、ため息を一つついて、俺の問いに答えた。
「俺の職業柄、わかるだろう。毒薬だよ。さっきはああ言っておいたが、見られてたんじゃしかたない」
なるほど、じゃああのビンっぽいのはその毒か。それしか見えないからな。こいつ、なんだかんだ言っておいて、やっぱり患者を殺す気だったのか?
………………いや。
「そうかい。全く、やっぱり心の奥で考えてることは殺しのことだけかい」
ふと、やつが俺から目をそらした隙に、俺は素早くやつの言う毒薬を取り上げた。見ないですぐポケットに入れたので、何と書いてあるのかはわからなかったが、とりあえずビンだということは確認した。
「手術を知ってたとしても、俺はきっと失敗して、結局殺すことになるだろうよ。だからやはり、俺はこの仕事のほうが向いてるんだ」
何も知らないまま、やつは上着を着た。俺のほうが出口側に立っていたので、戸を開け、先に外に出た。いまだに砂嵐が続いている。
「じゃあな。また会おうぜ、殺し屋さん」
「別に俺は会いたくないが……。もう俺の仕事に手は出さないでほしいな」
「ははっ、そいつは無理だ。じゃ」
やつはため息をついて、砂嵐の中に消えた。この黄土色の中では結構目立つはずの濃い紺は、あっという間に見えなくなった。
俺はやつのどこの砂嵐に慣れていないから、こうやってフード付きの体を覆うコートを着たり、細長い布で口元を隠していたりする。それでも、やはりずっと立っているのは辛い。やつが見えなくなって少ししてから、俺はトラックの運転席に乗り込んだ。
「さて、あいつの使った薬は何だったのかな……」
懐にしまっておいたビンを取り出す。そして、ラベルに目をやった。
「……ない」
「え?」
小さく呟いたつもりだったが、思いのほか弟には聞こえたらしい。食事の片づけをしていたサシが、こちらを向いたのがわかった。
「どうしたの? 兄さん。……なんか顔色悪いよ」
「そ、そんなに悪いか?」
この世に一つしかないわけじゃない。売っているところへ行けばいくらでも売っている物だが、俺はそんなに焦っているのか。
「上着? 何か落としたの?」
「ああ……」
もう一度、壁にかけている上着の内ポケットをあさる。そんなに数があるわけではない。やはり、見つからなかった。
「そんなに大事なものなの?」
「いや……」
俺が必要としてるものじゃない。俺がなくしてしまったものは…………
「――なんだか日増しに強くなってないか? ここの砂嵐……。よお、邪魔するぜ」
「あ、あなた」
またきやがった、ユウシのやつ。あれから三日と経っていないぞ。
「ユウシさん……でしたよね。また兄さんのことで来たんですか?」
「そう怒るなって。俺は今日はけんかしに来たわけじゃない。それにこの件については、サシ君、君にも関係がある」
「僕?」
ユウシが口を開いていなければ、帰ってくださいと言わんばかりだったサシは、ユウシの言葉に少し驚いたようだ。いや、驚いたのはサシだけじゃない。自分の家みたいに、遠慮もせずに椅子に座ると、ユウシは俺を見た。
「なんだ、上着とにらめっこなんかして。もっと丁寧に扱ってくれなんて、文句でも言われたか?」
「服が口をきくものか。さっさと用件を言え」
俺とサシは席につかず、立ったままユウシと向き合った。ユウシはため息を一つ吐くと、
「お前が上着とにらめっこしてた理由は知ってるぜ。なくしたからだろ? お前にとって……いや、お前の弟にとって大事なものを」
「な、に?」
なぜこいつが知っている。
「僕に、必要なもの?」
サシが不思議そうに、こちらを見上げてきた。
「おおかた、弟さんに使うつもりなんだろう? まあ、その前にこないだの患者に使っちまったようだが」
言いながら、ユウシが何か小さいものを、俺に投げてよこした。慌てて両手で受け取ったそれは――
「…………『強心剤』?」
俺の手を覗き込んだサシが、呟いた。