黄昏の太陽
我ながら若干演技臭くはあったが、なるだけ表情を込めて妙に納得したような台詞を返してあげると、向日はここぞとばかり不敵な笑みを振りまいた。
保健室のベッドの脇をベンチ代わりに、お互い微妙な距離感を保ちながら、他愛もない会話は続く。
「そ、そ。バッサリ行ったら、かえってみんなの頭ん中から印象リセットされちゃった。大失敗」
そう言って彼女は、右手のピースサインでハサミを作る。
何のことかと言えば、向日の髪型の話だ。実は彼女、四月のクラスでの自己紹介の後に実行した大胆なイメージチェンジのおかげで、僕の記憶からもその存在がすっぽりと抜け落ちてしまっていたようだ。当時は『姓は失念、某葵ちゃん』などと大雑把な覚え方をしていた。思い起こせば、元々は結構派手な髪型で、あちらこちらの男子からちやほやされるほど美形の娘だったように記憶している。
それが何の心境の変化なのか、一見男子と見紛うような短髪。正味な話、僕や長髪の篠原よりも更に短い。かといって、彼女が健康的な爽やかさだとかボーイッシュさを個性とする人物かというと、それはそれで首を捻らざるを得ない。
乙女心というものは神秘的に不可解だ、全く。勿論、そこは土足で踏み込むべきでない聖域かもしれないからと、僕は理由を追求することをあえて止めた。
「……とにかく、ごめん。向日さんに頭突きしちゃって」
「アタシ人生初ヘッドバッドだった。ってか鼻がマジ痛い~」
そう言いつつ、自ら鼻を摘み、涙目ながらケラケラ笑う彼女。天真爛漫。
いつの間にかの意気投合だった。女性に血を出させるほどの怪我をさせておいて今更妙な展開だけれど、こうなった理由は正直分からない。
想像していたよりも随分と開放的な娘なんだな、と思った。一時最悪気分だった僕の心は、瞬く間に晴れやかになる。
そういえば、風に運ばれて来る外の匂いが、何故だか心地良く感じた。ひるがえるカーテンの鳴りと、金属バットや弾むボール、駆け抜ける足音達の多重演奏。古びたベッドが二人分の体重に一々悲鳴を上げるのは、ちょっとばかり鬱陶しくはあったけれど。
「……向日葵」
ひまわり。不似合いなことに、僕の口から、ふと黄色い花の名前がこぼれた。
僕の素朴な疑問だった。
「ムコウ・アオイでヒマワリ。面白い……ってーか、ちょっと不思議な名前」
面白い、というのは少し印象が悪いものかと、咄嗟に言い直す。
「ああ、アタシの親が仕込んだ、ちょっとしたゲームだよ。でも実は同姓同名の人、調べたら他にも何人かいるでやんの」
単なる何気ない仕草なのか、チェック柄のスカートの裾をひらひらと弄繰り回し、鳥が羽ばたいているようなジェスチャーをする彼女。他にも自分を抱きしめてみたり足をバタつかせたりと、まるで呼吸するようにアピールしていないと気が済まない性質なのか、全く正反対な習性の僕にはカルチャーショック級の発見ばかりだ。
「最初はウチの親スゲーとか思ってたけど、今思えば命名が安易つーか、その事実を知って、ちょっぴりションボリすんね」
言葉に同じく、大げさに肩を落とす向日。それでも、ちっとも気にしていなさそうに。
あれほどクラス中で大騒ぎになったのにも関わらずの彼女のあっけからんとした態度に、僕は内心胸を撫で下ろした。
だから、こう伝えた。
「なんか、よかった。怪我させちゃって。色々気まずかったから、さ」
そう言い終わるのを待たずに、すぐさま僕はベッドから飛び降りた。
「じゃ、こっちはそろそろ帰るかな」
話題が落ち着いてしまったこともあり、少々気まずくなり始めた空気を悟った僕は、言いながらズボンに付いた埃を払うような仕草をする。そういえば今頃になって思い出しても遅いだろうけど、保健室の表に居たはずの篠原達がどうなったかも気がかりではある。高根沢さんはあれから自分の部活に行っただろうか。
「宏夢クン、部活は?」
不意打ち的に、僕にとってなかなか手厳しい質問が舞い込んだ。しかし、こんなときに限ってくだらないプライドが割って入り、僕を沈黙させる。
「…………。なるほど~。……帰宅部、おつ」
僕の自尊心を軽快に踏み潰すような台詞をさも楽しげにぼやきながら、向日はおもむろに靴下を履き始めた。
「よしよし、したらばアタシを送ってゆけ。うっかり恋が芽生えるかもしれないぞ」
どくん。
瞬間沸騰。何かが、高鳴った。
どくん、どくん。
そういう日本語の使い方って、あり得るのか?
どくん。
何が? 恋が。どうなるって? 芽生える。かもしれない。仮定形。
どくん、どくん。
しかも、送ってゆけ、だって。いきなり命令。
これは、向日が天然系故の決め台詞なのか? それとも――
どくん。
「いや、つーか帰りさ、篠原とか居るし……」
――本能的に、僕は彼女の秘めたる言葉の魔力を豪快にぼかした挙句、明後日の方向にいなしてしまっていた。嗚呼、なんて不本意な拒絶反応。だが、それを後悔する以前の問題で、すぐさま自分の言ったことの矛盾点に気が付く。
しまった、馬鹿だ。
僕はそもそも登下校時は単独行動だったのだ。
確かに、もはや腐れ縁になりつつある篠原とは、大抵の行動を共にしている。そして、篠原も僕も、あらゆる部活動に所属していない。つまり行動を束縛するものはないわけだ。けれども帰宅時の篠原は、保護者――否、忠犬? ――としての使命感からなのか、女子柔道部所属の高根沢さんが練習を終えるのを待つのが日課となっている。一方、柔道部に早朝の練習があれば、まことに几帳面なことに篠原もお供する、という寸法。殊勝というか、ご愁傷様なことだ。
そして僕もわざわざ二人を引き剥がすほど野暮ではない。当然、姫君の部活動が休みでなければ、登下校は僕と彼ら二人とで別行動となる。だから僕はいつも一人。仲がいい悪いではなく、都合上そういう仕組みだったのだ。
「あー。え、と……」
頭を掻いて誤魔化す。駄目だ、これではあまりに挙動不審過ぎる。
「……どしたよ? アタシ、篠原クンならミッキづてに知ってるぞ」
この期に及んでの、更なる追い討ち。しれっと答えた向日の言う『ミッキ』とは──その女の子特有のセンスというか、単語の響きに脱力感を覚えるが──文脈的にはどうやら高根沢さんの下の名前、『未姫』のことを指しているらしかった。
ふと彼女の身なりを見ると、いつの間にやら鞄まで逆手に引っ提げ、すっかりその気でいるご様子。心情的には、男冥利につき、とも取れる展開にまんざらでもない。しかし、それでは不可抗力でついてしまったくだらない嘘の収拾をどうしてくれようか。
そう考えあぐねていたときだった。
「──ハイハイハイハイ! さっさと行くべし!!」
ちょっと漫画っぽいコミカルな言い回しで、向日は僕の背中を掴み、強引に押し始めた。
ああ、こういう娘なんだな。論よりも行動、僕とは正反対だが、それが妙に納得させられる。細かいことに悩むだけ馬鹿らしくなった。
観念した僕は、ちょっとはにかみ損ねたような中途半端な笑顔を浮かべながら、自分の鞄を手に、黙って彼女に従うことにした。
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