黄昏の太陽
そののんびりして頼りなさげな口調や、か細く小柄で童顔という、いかにも女の子らしい風貌などから、どことなく可憐で儚げな少女のような印象を受ける。けれども、最近まで彼女達二人をつぶさに観察してきてわかった事実が、結構意外で面白い。物心ついた頃からの幼馴染みであるらしい篠原と高根沢さんは、立場的には保護者と子供のような関係で、しかし力関係的には篠原の方が従で彼女が主となっているのだ。しかも高根沢さんは、小さいながらも柔道部所属の武闘派。普段は天然系でほのぼのとしている純朴少女の高根沢さんに、それなりに長身美男だが大層ガラの悪そうな風体の篠原が、事ある毎に『スーちゃん』呼ばわりされた挙句、柔道技でしばき倒されていたりする光景は、端から見ていてすこぶる微笑ましいものだ。
「――――あのね、めちゃ話聞いてないね、田幡くんよ?」
「……ヒロム」
不覚にも思考停止中だった僕に痺れを切らした篠原に、思いっきり尻の肉を鷲掴みされる。当然、男にされればあまりの気色の悪さに鳥肌が立つ程の戦慄を覚えるわけだが、どこかの小さなご主人様に『頭だとお馬鹿さんになるから、お尻を攻めるといいよ』とでも諭されたのだろうか、最近の篠原のお気に入りの殺法らしい。
「わー、わかったから、謝ってくるから、そこ触わんないでよ、ってば」
僕は不自然にしどろもどろになりながら篠原の手を振り払い、改めて保健室の扉の前に立った。
謝る、というのは他でもない、僕が怪我をさせてしまった向日葵という名の女子に対しての話だった。
あの頭突き流血事件の後、高根沢さん達有志によって介抱された向日は、貧血だの打撲だの何だので結局保健室送りになってしまっていたという経緯らしい。そのまま何やかんやで彼女の存在を忘却していたら、いつの間にか放課後、である。
僕自身、そもそも向日とは面識がなく、申し訳ないやら何やらで、彼女に合わせる顔がなかった。けれども、彼女とは割と仲のいいらしい高根沢さんのゴリ押しによって、とにかくお前は向日に謝れ、という展開に発展してしまったのだ。そういえば高根沢さんは、あの直後に激怒して僕をぶっ飛ばした張本人でもあるわけだけれど。何にしても妙な構図ではある。
個人的には、床に伏した女性に、それもあまり親しくない間柄の異性が顔を合わすのは、本来は不謹慎かなと思う。でも、それもこのプレッシャーから逃れるための苦しい言い訳か。
とにもかくにも、向日葵という謎の女子を巡る高根沢さんや篠原それぞれの思惑は別にして、もはや僕には流れに身を任せるしか選択肢がなかった。八方ふさがり。今ここから逃げ出そうにも、扉の前でこれだけ馬鹿騒ぎしていれば、もう手遅れだろう。
ええい、ままよ。観念した僕は、反応のないノックを数回試みた後、やけに噛み合わせの悪い保健室の扉を、勿体ぶりながら横にスライドさせた。
保健室の中は、夕刻独特の淡い光と、ほのかな薬品のにおいとで満たされていた。
保険の先生はどうやら不在のようで、開け放たれた窓の方から、はためくカーテンの音と、グラウンド上での部活動の喧噪が耳に入るのみだった。
保健室と言えば、確か春の健康診断のときはここではなく体育館かどこかで実施されたような曖昧な記憶が思い出される。そう考えれば今回初めて保健室に入ることになるわけだけれども、だからと言って別段もの珍しい場所でもない。
見れば、校舎の他の部分と同様に、壁から床から事務机に至るまで、押しなべて年季の入った代物ばかりだった。埃にすすけた天井からは今にも部分部分の構造材が剥がれ落ちそうで、本来は恐らくベッドの脇にでも置かれているのだろうパイプ椅子の背には油性の太マジックで『公民館』と書かれ、その脈絡のなが更なる哀愁を誘う。
肝心の向日が横たわっているであろうベッドはというと、少し黄ばんでクリーム色に変色した遮蔽用のカーテンで完全に覆われていた。まだ患者のプライバシーが確保されているだけマシか。僕の中学生時代の保健室など、そんな気の利いたものすら存在せず、隣のベッドでサボタージュを実行中の不良学生どもに横目で威嚇されることすらあったのだから。
それにしても、扉の次はカーテン、か。ただ単純に謝罪して礼節の筋を通すだけなのに、いきなりの物理的障害物に、正直気が滅入る。
「……あの、失礼……します。向日……さん?」
緊張を押し退け、無理矢理言葉を振り絞った。
「――帰って。アンタの顔、見たくない」
カーテン越しから、予想外の即答で帰ってきた、凛としたメッセージ。
瞬殺。心を貫く言葉。言葉はとき残酷で。脳天から爪先までホワイトアウト。
今日教えてもらうまでは名前も知らなかった女子に、顔を合わすことすら許されず、恐るべき速さで拒絶された。
僕の中で、何かが、終わった。バッドエンドかデッドエンドのどちらかだ。
「……………………………………すいま……せん……」
――違う。ごめんなさい、と言うべきだった。
怒りとか悲しみとか、そういうありふれた感情に気持ちを落ち着けられないまま、辛うじて一言だけそう呻いた。
直後、妙な理不尽さが僕の意識を支配する。折角謝りに来たのになんで僕だけが──そもそも篠原があんなことしなければ──などという、最も子供じみて胸糞の悪い、例の奴だ。
そんな惨めな僕の両足は、形式上は役割を終えたであろうこの身体を勝手に出口まで運ぼうと、この場から逃げ出そうと、主に逆らい始めた。
その途端、だった。
思わずベッドから飛び起きてしまったのだろうか、金属パイプとバネが激しく弾んで軋む音に折り重なり――
「――ちょ、待っ……ダメ、まだ帰ンなバカー!」
――取り乱したような奇声で彼女がまくし立てたのだ。
あまりのことに驚いた僕は、びくっ、と全身が硬直するのを感じた。
『帰れ』後に『帰るな』って、何だそりゃ。意図不明。それにいきなり『馬鹿』呼ばわりとは。とても開いた口をふさぐ術がわからない。猫の耳が念仏で茶でも沸かしそうな勢いだ。
今、目の前で一体全体何が起こっているのか、もはや僕の思考回路では正常に計算不能だった。
と、カーテンとカーテンの隙間から、鼻に不恰好な詰め物をしたショートカットの女の子の顔がひょっこり覗いて、目をパチクリ、素っ頓狂にこう言うのだ。
「からかった」
双方、豆鉄砲を食らった鳩の表情。
僕は脊椎反射的にこう返した。
「……から……かわれた」
僕の精一杯のユーモアを込めた掛け合いに呼応するかのように、ムコウアオイの白い歯が眩しく光った。
ぺた、ぺたん。カーテンの裾から、彼女の裸足が、コンクリートの大地に舞い降りる。それじゃあ、彼女の顔が覗く薄汚れた白いカーテンは、翼?
まさか、まさか。
彼女は肩をすくめながら、にっこりと笑った。
とんでもない、僕はそもそも今の今までムコウアオイなんて知らなかったんだ。
床には、無造作に脱ぎ捨てられた靴下が覗いていた。
飛び切り変な奴だった。
†3
「あー、それで見覚えがなかったんだ」