黄昏の太陽
「あのさ、篠原と高根沢さんさ、部活で遅いから、今日は別行動、かも」
保健室の扉を開けてすぐさま、彼ら二人の姿が見当たらないことに気付いた僕は、向日に遠まわしな事実を伝えた。僕なりに、苦しいながらもさっきの話の辻褄を合わせたつもりだった。
向日はというと、黄色の派手な携帯電話を片手に、口をぽかんと開けたまま、一寸だけ硬直。直後、何か重要なことを思い出したかのように、一気に喋りだした。
「──やーっぱり! そう来たか、ウンウン。だよね、あの二人は絶対間違いないもんね」
何が『そう来た』のか謎だが、心の底まで深く納得しきったような、あからさまな大肯定。そもそもあの二人の話といえば、思い当たる節はあり過ぎる。
「それって、つまり、あれか」
「二人は超仲良し」
若干予想から外れた向日の妙な切り返しに、彼女が所謂『ボケた』のか、それとも遠まわしに表現しただけなのかは、判断に困る。
要するに、あの二人の間柄はただの幼馴染み以上の特別な関係だと、周囲の人間は誰しもが思っていた。面識の浅い人間からすれば、あの二人は付き合っているのか、などと思われてもフォローのしようがない。もっとも、僕の視点からだと、それが恋愛感情と言うよりも家族愛的な絆を強く感じるし、腐れ縁の仲と言うには妙に重い依存関係と思う。
「確かに、ね。ただ、どっちかってーと、ちょっと変わった兄妹、みたいな……なんかあいつら、男女の仲とか超越しちゃってるぽい」
言いえて妙だが、どちらにしろ超仲良し、自体は間違っちゃいない。彼らには悪いが、目立つし、変わっている。
「ええぇ、なんだそりゃあ」
向日がやけに間の抜けた声を出す。心底がっかりするな、彼らにどれだけ情熱的なロマンスを期待していたのだ。
よくある定番のゴシップ。仮にも友達の身辺話について、陰であれこれ品定めするは個人的に気が引けたが、向日との間で他にこれといって話せることがないので、僕はこの話題で食いつながぐことを決め込んだ。それに、この手の話題は彼女の好奇心をいたくくすぐるようだった。
「篠原の奴もさ、普段から『見ろ。俺の弁当のピーマンとニンジン、オマエに食われたがっている』だとか一々まとわりついて来る癖に、こういうときだけ男の友情よりも高根沢さんを取るんだぜ?」
そう言いつつ、篠原の口調を真似ながら演技してやる。全く薄情な奴だ。さみしいね。本心ではないが、そんな風に、少々大げさに愚痴をこぼしてみる。
「──ッッ!!」
瞬間、向日の顔が引きつって、歪んだ。余程彼女にとって衝撃的だったのか、あまりのことに笑いを必死で押し殺しているのだ。
「……し、『篠原の奴』が、そ、そーいうキャラだったとは!」
必死の努力も効を奏せず、彼女は遂に大声で吹き出し始めた。想像していたよりも随分と下品な笑い方で、逆に僕の方が戸惑ってしまいそうだった。
と、流石に廊下で大声を出しては拙いと思ったのか、慌てて屈み込んで……悶え始めた。向日、脱力。どれだけ衝動を抑えようとも、あまり意味がないようだった。
「あー、なンかさ、そういうのちょっと羨ましい、ぜ」
笑い死にの果てに若干の落ち着きを取り戻した向日が、少し涙目になりながらも、ちょっと意外な反応を示した。思い過ごしだろうか、少し俯き加減の表情。僕達が羨ましいというのは、一体どういうニュアンスなのだろうか。
と、傍らの向日が、両手を腰の後ろで組みつつ、小走りで突然僕の目の前に立ち塞がった。
そして、僕の顔をじっと見上げて、少し抑揚を込めた口調でこう言った。
「よし、仲間に入れろ。帰りはアタシがかまってやるから」
一瞬、彼女の意図がわからなかった。
誰が。誰を。
もしや、向日を僕達三人の仲間に入れれば、代わりに彼女が僕と一緒に帰ってくれる、つまりそういうことか。
そう解釈すると、言葉の意味そのものはわかる。でも、僕にはやはり彼女の意図が理解できない。
言えた義理ではないが、まだ幼い小学生がそう言うのと、大人に片足を突っ込んだ高校生が言うのでは、その言葉の重みや意図するものがまるで違ってくる。
穿った見方をするならば、何かの駆け引きとも取れる。
僕は、向日のことを思った。
向日という娘は、何故にこうも、大胆で挑発的なことを言い放てるのか。
あるいは、何かに飢えているのだろうか。
僕は、違和感を感じた。
僕のココロは、ひょっとして彼女に筒抜けなのだろうか。
実は見事にたぶらかされているのではないか。
僕は、向日という異性のことが、単純に面白くて珍しくて、そして可愛い、そう思い始めていた。
ずっと彼女に振り回されっぱなしではあったけれど、それでいいと思っていた。
これは、たった今日、彼女自身から直接得たものだ。それも、恐ろしいまでの密度の。
でも、それもこれもただの手前勝手な錯覚、希望、幻想。実際は向日葵の手のひらの上で踊っているだけ。
そもそも僕の人生ではあり得ない、こんなに離陸態勢な展開。
それが、違和感の元凶。
「……帰り、かぁ」
確証なんて、ない。勝手な思い込みかもしれない。
それでは、例えば僕が拒絶したら、彼女は一体どうなってしまうだろうか。
ふと、思い出したように、彼女の短い髪の毛が視界に入る。
やはり、彼女には、僕の知らない何かがあるのかな。
素直じゃない僕は、考え始めると、要らぬ疑念で思考がループしてしまう。悪い癖だ。普通の男なら、こんなに考え込むようなことではないはずなんだ。
「帰り道に連れ合いが欲しいのは、まぁ、嘘じゃない」
僕はと言えば、脳裏でこれだけ悩んだ末の結論が、結局これだ。玉虫色な、どうとでも受け取れる返事。一方、彼女はそんなことなど露知らずの表情。
「アタシ、駅前と逆方向なのよ。イ・ナ・カ・モ・ノだから」
向日はそう言って、何故か教壇で講釈でもたれるように、僕に指を差し向けた。田舎者、への念の入れようが何故か面白い。
で、さっきまでの話はどうなったんだろう。思えば、またしても僕の台詞につながらない様な、全然脈絡のない展開だった。彼女はこういう話の仕方をする子なのか、などと少しだけわかった気になる。なんというか、向日は変に相手の言った言葉を追求したりすることに拘らないから、話が軽やかに進む。まあ、こっちの話など深く聞いてはいないだろうから、とき困るときもあるだろうけれど。
「──でさ、ヒロム君ちが駅前の方向だったらスゲー意味ないよね」
「……え」
言ってる傍から昇降口の下駄箱群まで辿り着いた僕達。
砂で薄汚れたスノコをバタバタ踏みしめながら、彼女のさり気ない問い掛けになんと答えるか考えた。
回答を勿体ぶるまでもなく、僕の自宅は駅前とは逆方向──つまりは向日も同じニュアンスのことを言ったので、両者の帰宅コースが重なる可能性は高い。
正直、ホッとした。ただ、それを表情に出すのは、やはり恥ずかしい。だからこう答えることにした。
「ああ、じゃ、僕も田舎者かよ」
僕のちょっと素直じゃない返事に、向日葵は言葉なく、けれども太陽のような満面の笑みで返した。
僕達の物語。